2019年10月23日水曜日

ないみたいな一日


 《今日一日がないみたいというのは、こんなにも楽なのか》と、角田光代が短編の中で書いているそうな。「家族のために作った料理の写真とレシピをブログに載せる」主人公が、「こんなに幸せな毎日です」と自己確認する所業なのではないかと気づいて、「その日はブログを更新しなかった」日の感懐。


 ブログを更新するというのがほぼ生活習慣になっている私にとって、うん、わかる、わかる、と腑に落ちる台詞でもある。「毎日の幸せ」を自己確認するためとは思っていないが、でも、こうして何かを書きつけているほどに元気ですよと、(何人かの)読んでくれる知人に知らせている行為ではある。知人の方からみると、おっ、ヤツはまだ、山を歩いているのか、ボケていないのか、生きてるのかと受けとめるから、「毎日の幸せ」というのと変わらないか。

 角田の短編にある「楽」というのは、ブログの更新のために作る料理を考え、食材を買い入れ、調理を施してつくり、見栄えよく配膳し、写真を写し、ブログにアップする作業が、自分で自分に課した「任務」のようになっている、そこから解放される自在性を指している。つまり、いつ知らず生活習慣(に囚われる自身のありよう)が心の負担になる。そこからも自由でありたいという「わがまま」の表現ともとれる。

  ブログにアップするという見返りを求めない作業だから心の負担にならないというのは、嘘だ。カントではないが、それ自体のためにその行為を行う「定言命令」は、そうしないではいられないのはなぜかと考える次元に入ると、すぐに、何かのためにそれを行う「仮言命令」に変質する。カントが直観に基づいて振る舞うのが良いと言っていたとしても、人の営みは連鎖的にかたちづくられていくものであるから、どこかで「時を止め」て、なぜそうするのかと問うと、何ごとであれ「仮言命令」に化してしまう。ましてカントは、振る舞い方を論題にしたのではなく、振舞いの根拠を問うたのであるから、人(の振る舞い)はいつだって「仮言命令」だといったようなものだと、私は考えている。そう考えている人の立場を挿入してみると、じつは、考えている人の姿が現れる。水に落ちた子どもを救おうと飛び込む人の「動機」を忖度したとき、飛び込んだ人の「根拠」よりは、それをみて考えている人の「根拠」が表出する。それが「定言命令」であるか「仮言命令」であるかは、考えている人のモンダイである。

 角田の短編の主人公は「友人の指摘にふと我に返り」、「その日はブログを更新しなかった」。友人が鏡になってわが身を対象としてみることになった。すると生活習慣の中に、ブログを更新するために毎日料理をつくっている(局面の)自分の姿が浮かび上がる。いつしか自己疎外に陥っている自身を見て、そこからの解放を「なにもない一日」と感じる自分を発見する。人のありようは多面的といわれるが、観ている次元の多面性から多面的に見えるのであって、ありようそれ自体は、総合的に一つである。他人であれ自分自身であれ、次元を変えて多様なみてとり方が可能になる。生活習慣のかたちづくる心の習慣も、同様に、次元を変えてみると、いろいろな「仮言」に囚われていることが見える。

 「充実した一日」というのは、(何かに)囚われきった一日でもある。それを対象とみてとり、そこからの解放を「なにもない一日」と感じるとき、それはじつは、日々は充実していなくてはならないという感覚から自在である自分を見いだしている瞬間でもある。空無の境地といおうか。ある種の価値的関係から離脱した瞬時の感覚。それを「楽」というのかもしれない。

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