2019年10月8日火曜日

基底に立つ


 今野敏の「隠蔽捜査」シリーズの『3疑心』(2009年)『3・5初陣』(2010年)『5・5自覚』(2014年)を図書館から借り出して読んだ。この作家には、私は好感を懐いている。これまで読んだ記録を拾ってみると、(「 」内はブログ記事の標題)2019/2/5「なぜ武術を鍛えるのか」『武士マチムラ』(2017年)、2015/7/4「いま日本のナイファンチはどうなっているか」、『チャン ミーグヮー』(2014年)、2015/2/17「パターン認識」、『転迷』(2014年)、『隠蔽捜査』(2005年)、『隠蔽捜査2 果断』(2007年)、『隠蔽捜査3 疑心』(2009年)、『隠蔽捜査3.5 初陣』(2010年)、『パラレル』(中央公論新社、2004年)とある。「疑心」と「初陣」は二度目だ。そうして、2015年のブログ末尾で「面白いと同時に、はて、なんでこんな読み物に興味をひかれているのであろうかと、鏡を見ているような、妙な気分になっている」と記述している。


 その共感の部分については、それぞれの時期のブログを見ていただきたいが、今回の読後感は、2015年のブログ末尾で記した「鏡を見ているような、妙な気分になっている」ワケにあたるものを見出した気分だ。

 「パターン認識」を常とする人の習性が、偏見を作り出しもする。人類史を重ねるにしたがってその「パターン認識」も「偏見」も、その発生源が見えなくなるほど積み重なり、ボーっと生きてんじゃねえよとチコちゃんに叱られるほど、その淵源由来を忘れて「当たり前」のようにみてとって暮らしている。今野敏の視線は、その淵源由来(の近代的な形成時点)から生じてくる「パターン認識」を、しかもそれが展開する事態に応じて変容することを計算に入れて、動的に受け止め、そこを起点にして「偏見」に切り込む。切り込むというほど「現状」に対立的ではなく、むしろ「現状」の方が、その主体を「変人」とみなして警戒的に位置づけ、しかしそれに圧倒されていく姿が、読む者に心地よさを誘う。

 こう言いかえることができる。わたしたちは日ごろ、あまりある(ゆるぎなく強固な)「パターン認識」にとりかこまれていて、それを「偏見」と意識することすらない。つまりボーっと生きているというそこはかとない(自己認知の)感触が(読み進むにつれて)眼前に切り拓かれてくるのを、「鏡を見ている」と感じているのではないか。その自己切開の明快さが(他人事としての物語に現れてくるから)心地よさとして受け取っているように思った。つまり二度目の読書でも、同じようにカタルシスを味わったということが(私の場合)、よくわかる。

 読み終わってみると、カタルシス以上のものは、心裡に残らない。だが、こうやって考えていると、なかなか奥行きのあるモンダイに、今野敏が取り組んでいることがわかる。「隠蔽捜査」とは別の素材を扱った「ナイファンチ」のことなどは、その「パターン認識」と「身」の関係へ踏み込んでいて、さらに一層深い所での、「わが身」への問いかけになる。今度は「他人事としての物語」ではすまない場面に引き出されるというわけだ。

 何度目かの、とりあえずの教訓。
 基底に立て。そこから再び、現在に至る「わが身」の感性や観念を吟味せよ。
 小説から教訓を引き出すなんて邪道だとは思うが、それが私の「偏見」なのだと思って、ご容赦願いたい。

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