2019年10月27日日曜日

つれづれなるままに


☆ 洗脳とプロパガンダと規範の伝承をどう区別するか

 今野敏『マインド』を読む。この作家らしく、犯罪モノ。物語は単純明快で、精神分析医や心理療法士がかかわって、クライアントの抑圧している蓋を取り去って出来する事件を素材にしていて、意外性がない。あまりに簡単に他人の内面を解放する名人芸的催眠療法によって……というのが、いかにも作り物臭い。だが読みながら、洗脳とプロパガンダと規範の伝承をどう区別してとらえることができるだろうかと考えていた。


 意図して「思い」を刷り込むという点では、上記三者の違いはない。精神科医や心理療法の専門家たちには、ちゃんと区別する概念があるのであろう。だが私たちヒトは、小さいころから環境の教えるところを身に吸収し、周囲の遣う言葉を身に備えて意を表明し、コミュニケーションをとる。ところが、自由な社会に生まれ育ったら「規範の伝承」であるが、北朝鮮のような外からの圧政下に生まれ育ったら「洗脳」だという区別をどこでしているのだろうか。あるいは、かつてのナチスをイメージするとわかりやすいが、嘘も百回繰り返せば本当になるという「プロパガンダ」が身に沁みこんで、社会が一方向に走り出すのは、「規範の伝承」とどう違うのか。それがわからない。

 言うまでもなく、刷り込む「思い」が「思う」主体の外部から意図的になされるのか、育まれる環境によって自然に身に備わるのかと言えば、直観的にはわからなくもないが、「意図的」と「自然に」との違いがどこに視点を置いてそう言えるかも、わからない。さらに「思い」の備わり方をその主体の外部から(の主体が)みているのかどうかを考えに入れると、どれもこれも、同じように思えるのだ。

☆ 「行間の恨み」って、何よ

 先日(10/23)のこのブログ。李御寧『「縮み」志向の日本人』に触れて《この本は日本の国や文化にたいする奥深い恨みを行間に秘めながら、日本文化を出汁にして「東洋には(日本以前に)韓国あり」と謳わんとしているものであった》と記した。その「行間の恨み」って何よ、と批判が寄せられた。疑問を持った方には、その本を読んでもらいたいが、数多ある「日本人論」を著者は、東洋に位置づけてみれば韓国にもみられること、「日本人の特性」というのは自己中心的すぎると、批判している。

 本書が1982年に出版されたことを考え合わせると、ちょうどジャパン・アズ・ナンバーワンと言われていた時代である。世界のトップを走っていた主軸産業である自動車でもアメリカを追い越した最先進国の話であった。しかし李は、日本の文化の先輩国は韓国なのだよと言いたい気持ちを抑えて、自己中心的な「日本人論」に浮かれている日本を戒めたいという動機を、隠しきれていない。それを「行間の恨み」と名づけた。李が意識しているかどうかはわからないが、日本のように先進国争いをする次元にない韓国に切歯扼腕して、日本に浮かれるなよと諭しているのだと思うと、彼のこの著書に掛けた「恨み」は、哀しい。つい先日韓国はWTOに対して「途上国」を返上したと報じられた。李さんはどういう思いでそれを耳にしただろうか。

 どなたも自己中心的に発想し、自己中心的に語りたがる。そういう癖を持っていることを自戒せよと読むのなら、特段とりあげることもない。得てして「日本人論」にはそういう傾きがあるし、ことに近頃のマス・メディアは、外から見る日本(人)の特長に焦点を当てたり、自画自賛的に「日本人の活躍」を報じたりする傾向が目につく。たぶんこれは、日本(人)の立つ位置が不安定になり、自己像を描きがたくなっている不安が反映されている。つまり、何を鏡としてみるかによって不安は醸し出される。バブル時代の自己像を鏡にして凋落する日本を意識させられるとき、少しでも良きことを拾い出して自分を励ましているのかもしれない。他を謗って自己像を確保するよりは、少しはましかなと思いはするが、やがて哀しきは、同じである。

0 件のコメント:

コメントを投稿