2019年10月28日月曜日
地道に探索する関係に生まれるスクープ
人と人との関係がものごとを新たな局面へ導いていくものの見方を動態的という。「あの人はこんな人」「この方はこういう人」と思い込むのは人の常だが、そういう概念的なものの見方が固着すると「偏見」になり、固定観念となる。それはとても息苦しい(と私は思う)。でも最近、「ワタシって、これこれこういうヒトだから」という自己表現が、若い人たちの間で流行っている。それはつまり、その若い人がとらえがたい「自分」というものをどこかにつなぎとめておきたいという願望の現れと感じる。どこにつなぎとめているのかって? ほかの人々の観念に滑りこませたいとでも言おうか。私のような年寄りは、もはや人にどのように思われているかはどうでもいいし、自分がどういう人間であるかは、呆れるほど感じさせてもらっているから、いまさら「自分」の正体をつかみたいという不安も湧き起らない。でも、動態的に人の関係を見るという視点は、大切にしたいと思っている。
もう少し踏み込む。動態的に人の関係をみるというのは、人は(つまり自分も)変わるということだ。他人との出会いでは、見かけ、ことばつき、振る舞い、その他もろもろのものを通して、「印象」がかたちづくられる。いやな奴だと思うこともあれば、好ましく感じる場合もある。自分の受け止めた印象が「偏見」かもしれないと気づくことが、まず第一歩だ。「偏見」というのは「公正・公平」にみていないという気分が自身の内部に湧き起ることを意味する。たいてい自分は、不公正・不公平に人や世界を見ているとは思っていないから、自分の印象を偏見とは思っていないのだ。だがひょっとして「わたし」の見方は傾いているだろうかと内省が働けば、「偏見」が起ちあがる。奴に対するいやな印象はなぜなのか、好ましく感じている根拠は何にあるのかと、自分の感性を吟味することからはじまって「偏見」が解きほぐされていく。その契機になるのは、同僚であったり、友人であったり、思わぬ出来事がつくりだす事件であったりする。
今野敏『アンカー』(集英社、2017年)は、上記の動態的とらえ方をうまく構成した小説である。TV局のプロデューサーと取材記者と番組の出演スタッフの「かんけい」を俎上に上げて、この著者お得意の事件に取り組む警察官を介在させ、事件解決の糸口へいたる警察官の歩一歩とそれにアクセスする取材記者の働きかけと、そのスクープを番組に組み込んで放送する人の動きが、見事に動態的に構成され、表現されている。この作家の持ち味なのだが、捜査や取材における探索が地道に行われ積み重ねられていく。その振舞いに私はいつも敬意を表さないではいられないが、その地道な探索が「関係」の中で事件の真相究明につながったり、取材記者のスクープになったりする。読み物として読むとするすると読みすすめて、ああ面白かったと終わることだが、こういう運びになる職場というのは、果たしてどのくらいあるのだろうか。近ごろ報道される出来事にまつわる会社や役所(や企業や行政現場)というのは硬直して「関係」の流動性が感じられない。旧態然としている。
しかし、ときどき報道で「シェアオフィス」などに集ってフリートーキングをしている若い人たちがそれぞれが独立事業者として自在にやり取りしていたり、そういう起業希望者をサポートしたりするためのセッションが行われていて、「関係のコミュニティ」がかたちづくられていく様子がうかがわれる。ああこれも、動態的な関係なのだと、私は好ましく思っている。新しい芽は間違いなく芽生えている。旧態然とした関係がろそろ時代から退出して、新しい動態的関係の社会関係が広まるようになれば、多様でありながら「偏見」から自在な関係が大勢を占めるようになるかもしれない。そうなると、好き/嫌い、敵/味方、内/外を内包してはいるが、そういう価値的なものの見方をひとまず脇において、それらを包み込んだ協同的な流動的社会がやってきているような気がする。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿