2019年10月29日火曜日
際だったデータ分析の手法
先月来、「コミュニティの消失」を考えてきた。また10/9の本欄で、「原点に還れない「惧れ」」と題して、少子化のモンダイや団塊世代と若者世代の格差の拡大にふれてきた。目に止まったので手に取って読んだのが、吉川徹『日本の分断――切り離される非大卒の若者たち』(光文社新書、2018年)。驚いたのは、データ分析の手法。なるほど、社会学者は、こうやって時代の特徴を浮かび上がらせるんだと感嘆している。
子細は省くが、吉川は日本の将来像を描き出したいと考えている。簡略にいうと、団塊の世代以上がこの世から退出したときに、日本の社会はどうなるのかと、問題提起をする。この提起自体が、面白い。吉川がそう考えているかどうかは、じつは明確な言葉になってはいないが、私は高齢世代の数の多さや既得権、あるいはその世代が必要とする医療や介護のモンダイが今の現役世代の足を引っ張っているとはみてきた。だから、団塊の世代に代表される高齢世代が退出すれば、人口の急減にともなって限界集落の様相も変わるし、インフラの縮減も可能になる。そのあたりまでは見当がつくが、それは将来像というには漠然とし過ぎていると感じていた。吉川は、その将来像に迫るために、二つの社会調査のデータを分析して、現在の若者が引き摺るであろうモンダイを描き出し、面白い将来像をとりだしている。
日本の社会学者は十年毎に大規模な社会学調査をおこなっているという。2015年には「第7回SSM調査と、第1回SSP調査という、たいへん信頼性の高い大規模学術調査のデータ」を持っているそうだ。そのデータ分析をするときに、私たちがあいまいなままに使っている「世代」を規定する。つまり、団塊世代とか現役世代というのを生年で明確に区切る。吉川のいう「現役世代」は2015年の時点で60歳未満の世代。そのうちの「壮年」とは1955(昭和30)年生まれから、1994(平成6)年生まれまでの40歳、50歳代。それに対する「若年」は1995(平成7)年生まれから2014(平成26)年生まれまでの、20歳、30歳代。
この区切りが私には、わがコトのように感じられる。つまり、壮年世代と若年世代の境目に私の子どもたちが位置しているし、壮年世代の子ども世代(若年世代の少し下)に私の孫たちが位置しているからだ。この感触は、じつはたいへん大切だと、私は思っている。つまり、わが子(世代)や孫(世代)に迷惑をかけるわけにはいかないから、彼らのために何がしかの不自由を凌ぐ(と提起される)ことなら、引き受けてもいいと思うからだ。政府の施策に欠けているのは、この感触を持たせるに足る文脈をもたないことではないかと思う。
さて、現役世代を明快に区切った吉川は、その世代の「格差」がどのような構成をもっているかに踏み込む。そして、「学歴」による格差がいわゆる「学校歴」によること以上に決定的であることを突き止め、「生年(壮年か若年か)」と「男/女」と「学歴(大卒か非大卒か)」に分節化し対比して、その差異を読み取り、そこに「非可逆性」を加味して「格差」の将来像を描き出している。吉川自身は、価値的な(固定的)序列をつけていないから、余計にその将来像は、私たちの来し方と子や孫の行く末を示していて得心させ、関心を惹くにじゅうぶんであった。吉川は三つの指標の交差する8パターンの「格差」をとりだしたのちに、8パターンの組み合わさった「世帯」を4パターンに絞り、さらに「格差」と現役世代の抱える「困難」の将来像を浮き彫りにするのであるが、それはまた後日に触れることにしよう。
吉川の専門は「軽量社会学」と紹介されている。数値的に明快にされることに「まやかし」を感じていた私は、しかし、なるほど分節化するというのはこういうことかと感じ入っている。と同時に、社会学は、現状を変更しようという「欲望」を持っていないと感じた。それはまるで、庶民でしかない「わたし」たちが非力であることと立ち位置を同じうしていると感じさせ、好感をもたせるのかもしれないと思った。
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