2019年10月1日火曜日
(3)「空き家」問題と日本社会の空洞化
次々と新しい高層住宅が建てられ販売されているが、そう遠くない将来、それらは「空き家」になる。いや実際、管理組合理事長になってから耳に入るようになったが、1960年代につくられた団地はぼちぼち寿命を迎え、解体されて建て替えがすすんだり、あるいは耐震補強をして延命策を講じたり、資金不足で手が付けられなくなったりして、都市問題になっている。賃貸の戸建て住宅「ニュータウン」も、(居住区の高さ制限にしたがって)中低層住宅に建替え、新規発売も組み込んで建替え費用を賄う方策をとっている。しかしこれは、まだ社会移動によって人口の増加が見込まれている首都圏に限られた話だ。
懸念されるのは近い将来、人口減少のせいで、古い建物から新しいものに切り替える需要はつづくであろうが、古い建物の需要は着実に減少する。今の法制度では、古い建物をどう始末するかは、所有者に任されている。始末すると固定資産税が高くなるものだから、崩れ落ちそうな建造物もそのままに放置されるケースが多い。かつてのように更地になった土地が売れる保証もない。所有は徐々に減少し、賃貸に転々と移り住む方がラクと見る考え方が広がっている。中古の建物が売れなくなっている。地方に住む私たちの(親)兄弟の世代は、すでに空き家が目立つご近所が増えるのに不安を募らせている。
「百年住宅」が売り出されたのは知っているが、子々孫々に受け継ぐ考え方が広まっているというのは、ほんとうなのかな。たしかに、百年住宅は、使い捨てではなく長く丁寧に使える堅牢なものをつくろうと発想されたに違いない。だが、そういうイメージで住居をもつ家庭の時代ではない。わが子がどこでどのように暮らすことになるか、目まぐるしく変わる世の中で、子々孫々に受け継ぐ住宅が尊重される社会的根拠が(私には)わからない。百年住宅というのは、建物としての堅牢さは保てて、それなりに資産として長持ちしますよという考え方ではないのか。つまり、資産価値をある程度たもてるから、好ましく受け入れられた。それを建てる人は、いずれほかの人に売り渡して行こうと考えていたのだとすると、人口減少を頭に入れていなかったことになる。子どもの仕事をする地域を、固定的に考えられる時代ではない。
社会の趨勢をみると、間違いなく、使い捨て文化が大勢である。自動車にしても、10年以上経過した車の重量税は、年々高くなる。古いのは環境にも良くない、道路走行上の安全装置が不十分というのだろうか。自動車業界の働きかけがあるのかどうか知らないが、長く丁寧に使うのを推奨する社会システムはかけらも見られない。家電製品にしても、メーカーの部品保存期間がわずか5年。新しいのと取り換えろと謂わんばかりだ。むろん技術発展がそれほどに目まぐるしいから、それに適応しようとすると「使い捨ての発想」になる。使い古した百年住宅も「安いから」、引き続き購入して住む人がいるわけだが、その最終段階で、百年後の建物を解体して更地にするということを期待できるかどうかは、(私には)わからない。もちろん土地の需要がある地域ならば、それなりに引き継ぎ手はあるであろう。だが、売ろうにも買い手がつかない地域で、果たして更地にして綺麗に終末を迎えようと考える人はいるであろうか。わが身ばかりか、建物までも野垂れ死にを覚悟しなければならない時代だと思う。
日本経済新聞(2019/8/28)に「空き家問題を考える」という記事が掲載された。その記事の中に横浜国立大学教授・齋藤広子が《マンション管理組合の重要な役割》と見出しをつけて、「2018年度マンション総合調査」(国土交通省)の報告を紹介している。要点を箇条書きにすると次のようになる。
・空家率平均2・7%、築45年を過ぎると約1割、空き家率20%超も1割になる。
・投資目的で購入するから、新築なのに2割が空家というのも。
・管理費や積立金滞納も。
・相続から所在者不明の発生も。
賃貸に出している居室を「空き家」に含めないで上記と比べると、築29年のわが団地の「空家率」は3・1%。おおむね平均的な「空き家」状況である。昨年「空き家」「賃貸」にしている(管理組合員が現住していない)理由のアンケートをとった。販売に出しているというのは2軒(うち1軒は調査の直後に新居住者が決まった。もう1軒は介護マンションに引っ越したばかり)、所有者が亡くなり相続者の居住者が決まらないため空き家になっているというのもあった。介護事情が発生したのであろうか、親と一緒に暮らす(が、いずれ自分たちはここに戻ってきて棲むようにしたい)ためという事情が、多かった。勤務場所が変わったので、いまは賃貸に出しているが、売り払う気はないと考えている方もいた。広さもあり駅にわりと近いとあって、それなりの評価は得ている。だが「空き家」が1割を超えるときが来ることも考えておかねばならない。
齋藤広子は団地の「空家率」に応じて、「問題」が次のように変わると「レベル」設定をしている。
(1)ステージⅠ(10%未満)……表面化しない。
(2)ステージⅡ(10~20%)……日常的な管理組合の対応ではやや困難。長期修繕の展望は困難。総会出席率が低下、理事会開催にも影響。積立金不足にも。
(3)ステージⅢ(20~50%)……総会や理事会の運営困難に。修繕積立金の把握も困難に。
(4)ステージⅣ(50%超)……エレベータは止まり、ガス・電気・水道の供給にも支障が。居住困難に。
上記の「レベル設定」に加えて、斉藤は「築年数や立地だけでなく、管理の努力で状況は変わる。――管理組合や専門家の対応が重要」と、「空き家率」と「管理の努力」すなわち「管理組合や専門家の対応」が、どのステージに身をおくことになるか、決まってくる。そこに、ただ単に建物と植栽環境などの施設設備的な保持だけでなく、どうその、修繕や管理をすすめているかという「団地コミュニティ」のかかわり方が浮かび上がってくる。目下のわが団地は、ほぼその中間点を駆け抜けつつある、と言える。
しかし都市全体を鳥瞰してみると、齋藤が指摘するように、「空き家」という社会モンダイは人口減少だけによって生じているのではないことがわかる。社会的な余剰資金が、少しでも多い利潤を求めて都市部の新規建築に蝟集している。東京五輪というトピカルな建設ラッシュがもたらしている状況もあろう。都市全体の問題と考えて、住宅建築を構想する「都市計画」がどの程度提起されているのか知らないが、ほんの十年ほどの間に、団塊の世代は大量に彼岸に逝き、人口の都市集中は(仮え今後進むとしても)他の地域の急激な人口減少を引き起こして、進展する。日本全土として考えると、将来日本の居住環境と日本の所有に関する社会システムとが、うまく見合っていないのではないか。
上記の都市計画のモンダイを私は長く、日本のエリートたちが考えることと考えてきた。しかし近年の社会状況を考えると、日本のエリートはいなくなったのではないか。誰もかれも、高度消費社会のもたらした豊かな社会に身を浸していたおかげで、皆さん消費的な暮らし方を身に着け、おいしい生活に身も心も浸かりっきりになってしまった。そうして、将来を見通し、百年の大計を考え、それを語り、その第一歩を踏み出す施策提起をするエリートたちが、消えてしまった。官僚からも政治家からも、企業の経営者たちからも、社会活動家や学者研究者の間からも、そうしたことばを聞かず、そのような振る舞いを見かけなくなった。これは、私たち庶民にとって、まことに不幸なことであると思う。まさに日本という社会が、空洞化しつつある。「空き家」になっていっているように見えるのである。
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