2019年10月7日月曜日

新し物好き・清潔好きって、国民性?


 先月の台風ですっかり汚れた窓ガラスを拭いた。拭きながら、こうした掃除を毎日コツコツとやるのが「暮らし」だと思った。今の私は横着になって、汚れが目立つときとか、どなたか来客があるときにしか、掃除をしない。したがってカミサンがやってくれている分には、私は「暮らし」から遠ざかっている。男社会の積年の弊に乗っかり、老年という社会的な良識に依りかかって、「暮らし」を人に預けて暢気に振る舞う。申し訳ない年寄りになってきた。


 拭きながら、どうして日本人は「新し物好き」なのだろうと考えていた。新し物好きということは、綺麗好きとか、清潔好きということと関係あるだろうか。あるいは、新奇なもの、外来のもの、来訪者、外人好みなどと、関係しているだろうか。ひょっとすると伝統的なネーションシップ(国柄)なのか、単なる私の個人的な傾きに過ぎないのだろうか。

 長くアメリカで暮らしていた知り合いが「日本に帰ってきて一番驚いたのは、車がきれいなこと」と話していたことを思い出す。汚れていない。凹んでいない。傷がついていない。壊れたり汚れると、すぐにきれいにする。アメリカだと、あちこちぶつけていても、直しもしない。アメリカ映画で、車を街中で駐車するとき、すでに止まっている車にぼんぼんぶつけて隙間をつくるようにして停めるのをみて笑っていたが、あれって喜劇のパフォーマンスってわけじゃないというから、驚いた。ぶつけてもバンパーって、そういうことのためにつくってあると考えるから、修理に出したりしない、と。いつもきれいにしておくという習癖は、日本人に固有の文化的特徴のようだ(と思った)。

 なぜ? って考えたとき、無垢とか純情とか赤子とか素直とか朴訥ってことも、新し物好きや清潔好きと関連していると思った。なんだろう、この好みの傾きは。そう考えて行ったら、行き止まりのところで、単純明快好みという言葉が浮かんだ。これは、合理的な物事をわりと率直に受け入れる気質のことではないか。天動説より地動説が正しいってことを(外から地球を眺める以前に)「正しい」と判断した理由を物理学者に訊ねたら、「より単純明快に説明できるから」と応えがあった。ということは、日本人だけの特質ってわけじゃないよね。日本人は原理原則をもって物事に立ち向かうよりは、状況適応的だと批判的にいわれることがある。だが、この状況適応的ということの根っこには、単純明快好みのように、わりと合理的な物事を率直に受け容れる「器」がある。それが、外からの影響を受けやすく、主体性がどこにあるかわからないように見える「状況適応的」気質をなしているのではないか。好奇心が旺盛というのも、ひょっとすると、この気質と関連しているかもしれない。

 なんで、そんなことを、いま持ち出すのか? 日本が西欧の影響を受けて近代化を果たすことができたのはなぜか、近現代史の政治経済を考えている人たちの間では、昔から議論になっていたからだ。そのとき、安土桃山時代からの市場の形成とか商工業の発達や通貨の流通がとりあげられてきた。だが、江戸という長きにわたって海外との交通が制限されていた時代に、逆に参勤交代などを通じて列島の割と広い範囲に行きわたった文化や気質が、外国との交通が盛んになったときに有効に作用した様な気がするのだ。

 では、その大本は、どこからきたのか。私が遡れるのは、せいぜい天皇神話の形成期辺りまででしかない。伊勢神宮を訪ねたとき、神事として取り扱われて来たことの中に、火打石で火を熾し、田をつくり米を育て、魚介をとり、日々神に捧げる「御饌」があった。これは、いうならば「暮らしの原基」を、その初原から伝承している姿である。その「日常の暮らし」伝承の上に、式年遷宮という建て替えを継承してきた。これは新し物好きの、かたち。新規に更新し続けることを絶やさない気質の伝承にみえる。本居宣長がこの辺りについて、どういっているか。柳田国男の民俗学がどう扱っているか。折口信夫は霊性を介在させてしまったから、どちらかというと、彼岸の方に話が飛んでしまうように感じるが、こんなことを気にしていただろうか。

 ガラスを拭きながら、そんなことを考えるともなく思っていました。

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