2019年10月19日土曜日
イデオロギー論戦の「殻」は破れないのか
山崎雅弘『歴史戦と思想戦――歴史問題の読み解き方』(集英社新書、2019年)が図書館から届き読んでいた。「歴史戦」という言葉は産経新聞が使い始めた用語らしい。「思想戦」というのは、日中戦争と太平洋戦争期に日本政府の内閣情報部が中心になって展開した戦いであったそうだ。山崎は、産経新聞や日本会議を中心にしてなされている「歴史戦」は、戦前の「思想戦」の考え方を受け継ぎ、「大日本帝国」を擁護すべく、歴史のファクトに基づかない問題のすり替えをしていると批判する。
読んでいてうんざりするのは、「歴史問題の読み解き方」の正しい方法はこれだという啓蒙に満ち満ちているからだ。コトを針小棒大に述べ立て、不都合な「ファクト」は無視し、論点をすり替える手法を暴き立てることが、「正しい方法」を提示しているかのように。読んでいる私から言わせると、イデオロギーに対してイデオロギーをもって批判し、こちらの方が正しい「歴史の読み解き方」と主張しているにすぎない。まさに「戦争」である。
「戦争」というのは、戦いが始まった段階ですでに、それぞれの正邪は決定されている。山崎は「論戦」という「戦争」をしているのであって、「論議」をしているのではない。これでは「思想戦」さえ、乗り越えることはできない。「戦争」となると、勝敗を決するのは「力」である。「総力戦」ともなると、兵や武器弾薬などの戦力だけでなく、兵站や物量生産・輸送をふくめた後方の力量もかかわり、その上に「戦争の正義・正当性・正統性」が兵をはじめ人民の心をつかめるかどうかという「思想戦」の「ちから」も、大きな役割を果たす。そのとき「思想戦」の外部は文字通り国際関係における「正義」を争うイデオロギーの戦いになるであろう。だが国内的には、文化的・習俗的・伝統的な蓄積の共有されている「手堅さ」によって異なってくる。「敵」と向き合ったときにいっそう明確になった「国体を護る」という「思念」は、「ふるさと」とか「くに」という社会的関係の堆積によって身体性にまで高まり、死と向き合う力にさえなっていたと言える。そこに踏み込まないで、どうして、「大日本帝国」の「国体を護持する」人たちの論理を打ち破ることが出来ようか。
もし産経新聞や日本会議の「歴史戦」「思想戦」と向き合おうとするなら、山崎は彼らのイデオロギーがいかなる心情によって支えられているか、それを確かなものと感じさせているのは、どのような(現在の)社会関係なのかと、問わねばならなかったのではないか。イデオロギーにイデオロギーをぶつけても、いうならば、日本会議の人たちが共産党を端から毛嫌いするように、噛みあわない。「論戦」の決着を読者につけてもらおうというのであれば、ロジックだけでない心情に絡めて踏み込む力がなければならない。
そんなことを思うともなく考えていたら、田切俊介『日本人は右傾化したのか――データ解析で実像を読み解く』(勁草書房、2019年)の紹介記事が、面白いことを記していた。筆者は斉藤奈美子(文芸評論家)。
《ただし、注目すべきは世代による意識の差だ。〈ナショナリズムに関しては、いまなお年長世代ほど保守的、右派的である〉半面、平成生まれの若者世代に特徴的なのは、権威に従属的な権威主義だという。分析者はそれを「右傾化なき保守化」「イデオロギーなき保守化」と呼ぶ。全体の7割が脱原発志向なのに対し若者世代だけが原発に肯定的なのはなぜ!?》
つまり、山崎の解析は「年長世代」への批判としては成り立つけれども、「若者世代」には全く通用しないと、斉藤が見ているともいえる。それは、「今の時代に大日本帝国と日本とをすり替える論理」が(もし成り立っているとしたら)成り立つワケにまで踏み込まないと人びとの心情に踏み込めない。産経新聞や日本会議やそれを支持する人たちの言説が受け容れられている(としたら)のは、どうしてか。そこには、現代社会の(中で醸成されている)何がしかの関係が生み出す「心情・存念」が「ファクト」や「ロジック」を抜きにして、その言説を受け容れる根拠になっているのであろう。そこに切り込まないで、「論議」は成り立たない。日本国内における「論戦」はさらに、成り立たない。
山崎は1967年生まれというから、まだ五十代の初めの方。私からみれば若い世代に属する。にもかかわらず、古い世代のイデオロギー論戦に巻き込まれて、そこで泳いでいては、新しい領域を拓くことはできない。ぜひとも、ロジック・ロゴスの次元からひとたび抜け出して、心情・感性の次元から折り返す直感をもって、歴史を読み解く方法を打ち建ててもらいたいと思う。
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