2020年1月31日金曜日

すっかり忘れている


 今日(1/31)午後、検査をするというので、昨日から食事制限をしている。大腸の中をすっかり空っぽにして内視鏡で検査をする。お昼はグリコのビスケットにゼリー状のジュース。夕食は煮込みハンバーグと白かゆ。ええっ、こんなに手際よく手順が用意されていたっけ? と思うほど。
 9年前にした同じ検査のことをすっかり忘れている。

2020年1月30日木曜日

一転、雪国の春


 奥日光に行ってきました。一昨日(1/28)の出発時は、雨。日光宇都宮道路に入ってしばらくすると霙。いろは坂にかかるころには雪になっていた。積雪もあり、除雪車が前を走っている。関東平地の雨がこちらでは雪になっていたようだ。明知平のトンネルを抜けると、明らかに積雪が多くなる。それでも路面の雪は車に踏まれてぐずぐずになっている。赤沼トイレの前の駐車場には9時20分に着いた。出発してから2時間20分。ほぼいつもどおりの順調な行程だった。

2020年1月28日火曜日

よりによって


 明日(1/28)は雪が積もるかどうか心配されている。南岸低気圧が通過するところへ寒気が降りてくるから、雪になるのと霙になるのとの端境に、関東地方中央部は位置する。こんな日に、早朝から車で出かけようとしている。奥日光への下見である。

2020年1月27日月曜日

文化的・平和的に「防衛」を考えよう


 昨日のSeminarは、Hさんの「日本の防衛というモンダイ」。発題のときからHさんは、皆さんの考えを聞きたいと、いたって控えめでした。
 まず「国を守るとは」と切り出します。「国民の生命・財産と領土・領海・領空を守り抜くための取り組み」とはじめ「外国からの違法な侵害はやらせない」と引き取りながら、「宗教や国体(国柄)・文化は?」と疑問符をつけて提起しました。しかしこの、定番的なものの言い方は何だろうと思いましたね。「国を守る」という「防衛」の基本理念が怪しくなっているというHさんの認識があるのか。あるいは、人ぞれぞれの思い入れがあるから、その基本から確認してから、話しをすすめようと考えていたのだろうか。「結局は、子や孫を守る」こととHさん自身の「防衛」概念をまとめましたが、「国防」と考えるためには(世界情勢の認識とともに)何段階もの媒介項が必要なように思えました。

2020年1月25日土曜日

ものの見方の硬さ


 今週は、人と会って話すことが多かった。21日には大学の同窓生、23日には9カ月ぶりという親しい方、昨日はご近所のストレッチ同好会の方々、そして今日はSeminarがある。私は、人とつきあうのが苦手。世間話ができない。だから、黙って座っているだけで何となく気持ちが通い合うような人と時間を過ごす方が、心地良いと感じる。歳を取るごとに、その私の気分は亢進するようで、これも困ったものだと思っている。

2020年1月22日水曜日

文化誌という放浪


 奥野卓司『鳥と人間の文化誌』(筑摩書房、2019年)は、鳥にまつわる博物学の本である。博物学というのが、これほど気分気ままに放浪するものだとは、意外であった。花鳥風月から絵画、鳥の表象、江戸期の「鎖国」概念の転倒が民衆史からの視点であったことや、鵜飼のはじまりが長良川という話は、明治期の創作であること、鳥を食べるという作法から鳥に似せて空を飛ぶという飛行技術、あるいはサイバネティクスの起源まで、話題はほとんど放浪しているように移ろう。

2020年1月21日火曜日

男に分からない女の生理


 スウェーデン映画『リンドグレーン』(ベニアレ・フィッシャー・クリステンセン監督、2018年)を観た。原題は「Unga Astrid」、スウェーデン語で「若きアストリッド」。アストリッド・リンドグレーンが、「長くつ下のピッピ」の作者と聴くと、ああ児童文学作家か、なんとなく聞いたことがある、と思う。「なぜ子どもの心がわかるの?」と、この作品中の年老いた作者に読者の子どもから手紙が来る。

 農作業に明け暮れる日々の暮らしから、文才を認められて新聞社の手伝いに採用されて町で働き始め、離婚調停中の編集長と恋仲になり身籠るが、村で生むことが適わず、海をわたってデンマークで母となる。こう粗筋を辿ると、ありきたりのメロドラマになってしまうが、子をなしながら母となることの径庭が上手に描き出されて、日常の振る舞いのなかに人の心を感知し、会得する源があると推測させる。この、身をもって得ている日常がわたしという母であり、その孤絶と不安とそのところどころにほんの少し垣間見える希望とが、人が生きるということなのだと、私に伝わってくる。

 ただひとつ、映画を見ている男である私が刃を突き付けられたように感じた場面があった。それを語ると、この映画の秘密を解き明かすようになるので、直には触れない。だが、その場面でアストリッドがとった振る舞いは、子を産み難局を乗り切ろうと何度も海をわたって、、母として子と会おうとしてきたことを男が難なく乗り越えてしまう、男女の性差ともいえる溝の深さに気づく。その性差の溝の深さが、あっ、わたしにはわからないとわかったように思った。

 喜寿になっていまさらと思われるかもしれないが、「♫男と女のあいだには深くて暗い川がある」と改めて感じている。と同時に、そのあたりの性差が何によって生じているのか、進化生物学の論展開も、わかったつもりになって飛び越えてしまっている。いまだ解き明かしてはいないように思えた。

2020年1月20日月曜日

行き場のない「路上のX」


 やはり桐野夏生『路上のX』(朝日出版社、2018年)を読む。親に見棄てられた女子中学生が、カツカツで暮らしている親戚に預けられ、どう生きていくか。家を出るしかない。一夜を過ごすのにどうするのか。お金がないのにどうしのぐか。都会の路上は、高校生年代の女性には、あの手この手の誘いと罠が待っている。他人の悪意を知らない子どもが果たして無事に乗り切れるか。この小説のタイトル「路上のX」は、果たして主人公のことなのか、彼女を受け容れるポン引きや中年のエロ男のことか、あるいは、渋谷の街を行き交う、他人のことに無関心な人々のことなのか。いろいろな読み取り方ができる、その幅だけ、ヒトの生き方の幅はあるのだろうか。

2020年1月19日日曜日

話者と聴者のイメージギャップ


 今日(1/19)の午前中は、アンチの修繕専門委員会。午後は、やはり団地の「給水管等更新工事設計に関する説明会」。前者は、12名ほどの専門委員会だが、後者は住民の約半数が参加する。
 前者は大きな課題をひとまず片付けているから、部屋のリフォームに関する「承認事項」と引き続き検討している「給湯器の背面板の下半分を覆う風水害について」。前回おおむね結論が出ていたのに、委員長のちゃぶ台返しがあって、持ち越していた。

2020年1月18日土曜日

模倣と自律とプレーモデル


 今日(1/18)の朝日新聞、元サッカー日本代表監督・岡田武史の「指導法」に触れた記事。岡田はスペインの強豪チームを率いる指導者に次のようなサジェストを受けて「目からうろこ、の衝撃を受けた」そうだ。サジェストというのは、

 「スペインにはプレーモデルというものがある。その型を選手が16歳になるまでに身につけさせる。その後は選手の自由にさせる。日本にはその型がないのか?」

 というもの。岡田は、こう受けとめた。

 《順序が逆だったと感じた。子どものときは教え過ぎずに自由にドリブルなど個人技を磨かせ、高校生から監督のチーム戦術にはめ込む。だから、選手が状況に応じて柔軟に判断するのが苦手で監督の指示を仰ぎがちになる》

2020年1月17日金曜日

2020年春からの山行計画

 
 4月から12月までの山の会の山行計画をたてた。いつもなら単独行になるところも、kwmさんとkwrさんがつきあってくれるので、こんな山がいいかなという候補のコースを五十数か所、私が挙げる。それをkwさん夫妻が、月ごとに配置して「山行計画」にした。
 昨年もそうしたのだが、律義な二人は、表銀座縦走のトレーニングという触れ込みを意識したのであろう、全部こまめに付き合い、なおかつ、いくつかの山へ足を運んだ。それが祟った(と私は思っているが)、縦走後に疲れが出て、3カ月ほどペースダウンし、12月から全面復帰ということになった。

2020年1月16日木曜日

上野原の盟主・静かな権現山


 小仏峠の西、中央線沿線の北側に線路と並行するように大月方面へ延びる山塊は、総称して何と呼べばいいのだろうか。昨日(1/15)、その最高峰である権現山へ行ってきた。
 上野原駅に降りたのは8時。登校する日大明誠高校の生徒たちが一緒にどっと降りる。つい一年ほど前までは、駅の北側の狭く細長い土地にバスが器用に入ってきては向きを変え、出発順に列をなしていた。ところが南側に広いターミナルがつくられ、そちらにバス停などは移ったのだが、南側の平地との行程差が20mはあろうか。駅舎から下る3基のエレベータがもうけられてはいるが、生徒たちは階段を並び歩いて下る。それほどたくさんの生徒がいるのに、通路の半分は「昇り用」としてがらがらに空いたまま。つまり生徒たちの振る舞いが、まこと見事に作法に適っている。私ら年寄りは生徒の群れを離れて「昇り用」を下る。作法を無視しているわけだが、もちろん罪悪感はない。

2020年1月14日火曜日

薫陶を垂れる、あるいは自己陶冶を促す


 昨日のブログに書いたことが、ふと気になった。「ささらほうさら」のレポートについてリョウさんが指摘したことは、私にどう作用したか。リョウさんのサジェストは次のようなことであった。
 
 《文章で書いて読んでいただく批判的論述に、kさんが折を見てエクリチュールで反論とか異議を挟むのなら、たとえその批判的文章がほかの方々に見ていただいているものであっても、クールにやり取りができるであろう。だが、皆さんの面前でやりとりするのは、言葉の選択も修正が利かないし、ついつい余計な方向へずれていって、引っ込みがつかないってことだってある》

2020年1月13日月曜日

ボケのはじまり


 昨日から「ささらほうさら」の合宿に行ってきた。一コマのレポートを担当する。じつは、7日に仕上げて印刷を済ませたのがあった。それは、現役教師・kさんの論考に感じる違和感を手掛かりに、私が過ごした教師時代今の時代の違いを辿るものだった。

 レポートができたことを(私と同じくkさんの論考の「査読」を依頼された)友人のリョウさんと話したら、直にやりとりするのはむつかしいのではないかと言う。文章で書いて読んでいただく批判的論述に、kさんが折を見て反論とか異議を挟むのなら、たとえその批判的文章がほかの方々に見ていただいているものであっても、クールにやり取りができるであろう。だが、皆さんの面前でやりとりするのは、言葉の選択も修正が利かないし、ついつい余計な方向へずれていって、引っ込みがつかないってことだってある。それにkさんが耐えられるかどうかと心配している。リョウさんとの言葉のやりとりは10日朝のことだ。

2020年1月12日日曜日

カナリアを育てる(4)エリート教育と大衆教育とを分けて考えよ


 ★ 様変わり―不登校も出席扱い

  さて朝日新聞(1/8)の1面トップを飾った企画記事「カナリアの歌」の最終回は、2面のほぼ全部を使うようにして、つづいていました。2面の見出しは《生きる力を育む 学校も家も「緩めて」変わる》。やはり不登校の子ども二人を抱えたケース。これにも家族の顔出し写真が添えられています。
 畑を借りて野菜作りをはじめ、子どもたちを連れていく。そのうちご亭主もかかわる。「ホームスクーリングで輝く みらいタウンプロジェクト」というう団体を起ち上げ、行政にも働きかける活動をしていると、アメリカのホームスクーリングに200万人がかかわることを紹介したりしています。つまりフリースクールの別様のかたちです。これは文科省が2019年に学校以外の場で学ぶ不登校生を「出席」扱いすることを全国の教育委員会へ通知したことを反映したのでしょう。

2020年1月11日土曜日

カナリアを育てる(3)社会が変わり、ヒトが変わる


 人類史上最も贅沢な多数の人の暮らしを実現したという社会状況の変容がもたらした遺産です。消費者主権と欲望を先取りし開発する資本家社会的なコマーシャリズムが、それに適応しようとするヒトを変えていったのです。
 どう変えたか。
(1)心地よきことを求めるのは正しい、という感覚が一般化した。
(2)資本家社会の交換過程に委ねる快適生活が、普遍化した。
(3)上記の社会を生き抜くには産業能力の開発が第一という観念が行き渡った。
(4)社会インフラは、上記を邁進する個々人の障碍を取り除くように整えられるべきだ。

2020年1月10日金曜日

カナリアを育てる(2)父親殺しを乗り切る作法


 ドイツ帰りの兄の方が身を置いている「N高等学校」については、事情が少しはわかるような気がします。

 定時制もそうですが、フリースクールなどは服装規定もありません、校則もこれというほどのことは何もない。生徒の身をおく状況が、校則どころではないと教師が見ているからです。さすがにタバコを吸ったり酒を飲んだり、暴力をふるったり、ゆすり・たかりをすることは「処分」をしましたが、服装規定はないし、茶髪であろうが、ピアスをしていようが、咎め立てするようなことはありませんでした。
 フリースクールに「厳しい校則も制服を着る義務もない」ことを、何か特段のいいことのようにとりあげるのなら、定時制の事例も取り上げればいいのにと、皮肉を交えて思いました。だがそれでは、たぶん、この記事を通して記者が言いたいことが伝わらないと考えているのでしょう。
 なぜか。
 上記の「……義務もない」につづけて「先生が特性に合わせた授業をしてくれるところが良い」と記しているからです。定時制は学習意欲を充たす場とは(社会的には)考えられていない。つまり記者は、学校は(特性に合わせた才能を伸ばす)学習こそが学校の目的であって、それ以外の制約から生徒を解き放てと言いたいようです。

2020年1月9日木曜日

カナリアを育てる(1)抑圧のとれた(?)不登校


 今日(1/9)の朝日新聞朝刊のトップは「カナリアの歌(7)」の最終回。不登校の問題を取り上げている。何より新鮮なのは、ここで取材されている不登校の子どもたちの、自宅や菜園でくつろぐ様子が顔出しの全身写真で掲載されていること。ああこれで、不登校は不名誉なことでも内緒にしておくことでもなくなったと、私は思った。大きな時代の変わり目を見ている気持ちだ。

2020年1月8日水曜日

気のゆるみ、身体の衰え?


 昨日の夕方から、のどがガサガサする。私は気管支が弱い。山歩きの疲れが出るときは、ときどき喉がいがらっぽくなったりすることはあったが、ここ4日くらいは運動らしいこともしてない。このところの寒暖差の激しい天候に、身体が振り回されているのか。5日に孫たちがいなくなってホッとしていたから、気が緩んでいるのか。あるいは正月に雪山を散歩したのが、身に堪える歳になったか。

2020年1月7日火曜日

「日米同盟」、解消しては?


 アメリカがイランのソレイマニ司令官を殺害したとの報道の分析の中で、日本エネルギー経済研究所の理事が「米国民の関心、弾劾裁判から反らす狙いか」と解析している。同司令官はイラクに駐在してイラク政府の立て直しに信頼を得ていたという。そもそもアメリカはイラク派兵以来、シーア派の現政府を後ろ盾となってつくってきた。だが前大統領との違いを鮮明にしたいトランプ大統領の、国内向けアピールのために袖にし、なおかつシーア派がイランと手を携えてイラクで力を蓄えてきたことに敵愾心を燃やして、「多数の米国民を標的にしようとしている」とみなして、殺害に及んだという。つまり、アメリカ国内の有権者向けという楽屋落ちのような理由で、ソレイマニ司令官の殺害に及び、「報復」を表明したイランに対して、「報復するならイランの52カ所を攻撃する準備を済ませている。52というのは、(1979年に)アメリカ大使館で人質にされたアメリカ人の数だ」とネットで脅しをかけているという。

2020年1月6日月曜日

マヤさん


 昨日(1/5)、車で帰る息子一家を見送り、捻挫孫はばあちゃんが東京駅まで同行して、新幹線に乗せた。午后遅く、息子から無事についたとメール。捻挫孫の母親からは「なぜかひかりに乗ってゆっくり帰って来たようです」と、これもメール。捻挫をしたとき私が「車で家まで送ってやろうか」というと、孫は「せっかく新幹線に乗れるっていうのに、そら、つまらんわ」と応えていたから、早く着くより、長く乗っていられる方を選んだのかもしれない。面白い子だ。これで私の正月が終わる。

2020年1月5日日曜日

アクシデントにもめげず


 トラブルではなく、アクシデントでしたね。でも、捻挫もトラブルとして受け止めると、「かんけい」に手を入れる教訓になると「分解の哲学」者は言っているようです。
 
 捻挫をした当人とばあちゃんを宿において、2時間ほどの雪山山歩に出かけました。息子一家の親と孫二人と。昨日(1/3)わたしが下見をした1時間半ほどのルート。ゆっくり歩いても2時間と踏んで、出発。全員壺足。ところが、孫たちは雪が降り積もるところへ来ると、寝転んだり、雪をぶつけあったりして、前へ進みません。この先にも、雪はわんさとあるのにと思うが、親が一緒になって遊んでいるから、まあ、こういう子育てをしているのだと思うばかり。

2020年1月3日金曜日

トラブル


 奥日光二日目。孫たちはスキー。一人まだ初心という子がいて、午前中はスキー教室に入ったが、あとの孫たちは、リフトの終日券を買ってスキー三昧。親が付き添って過ごす。体力的に、ぼちぼち子どもの体力と親の体力が拮抗するのだろうか。兄孫は親と離れて何本も上り下りをしている。

2020年1月2日木曜日

メデタクもありめでたくもなし


 奥日光に来ている。息子一家と過ごす恒例の正月だ。孫たちも大きくなって、もう爺婆とは遊ばない。親が世話に勤しいが、兄孫はそれも煩わしいと感じ始めているのか、反抗期に入っている。結構なことだ。

 読みはじめた藤原辰史『分解の哲学――腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社、2019年)の一節にネグリとハートの「帝国」に触れて指摘した部分が目を引いた。