2020年1月13日月曜日
ボケのはじまり
昨日から「ささらほうさら」の合宿に行ってきた。一コマのレポートを担当する。じつは、7日に仕上げて印刷を済ませたのがあった。それは、現役教師・kさんの論考に感じる違和感を手掛かりに、私が過ごした教師時代今の時代の違いを辿るものだった。
レポートができたことを(私と同じくkさんの論考の「査読」を依頼された)友人のリョウさんと話したら、直にやりとりするのはむつかしいのではないかと言う。文章で書いて読んでいただく批判的論述に、kさんが折を見て反論とか異議を挟むのなら、たとえその批判的文章がほかの方々に見ていただいているものであっても、クールにやり取りができるであろう。だが、皆さんの面前でやりとりするのは、言葉の選択も修正が利かないし、ついつい余計な方向へずれていって、引っ込みがつかないってことだってある。それにkさんが耐えられるかどうかと心配している。リョウさんとの言葉のやりとりは10日朝のことだ。
そこで、別のレポートに切り替えることにした。そのときすでに、書き始めていた「カナリアを育てる」の(1)につづいて、(2)を10日中に仕上げる。さらに(3)に手を付け、なんとか午前9時ころにはおおむね見通しが立った。あとは(4)だけ。おおよそのイメージをあれこれ考えながら、車でカミサンを浦和の方へ送っていった。
帰宅して気が付いた。鍵を持っていない。そう言えば、車を取りに私が先に家を出て、カミサンが鍵をかけて後を追ってきた。うちの鍵とスマホを一緒にしてあるから、両方とも家の中において出てしまったのだ。戸締りはいつも割りときちんとしている。まいったなあ。締め出されてしまった。カミサンが帰ってくるのは午後2時ころ。まだ10時だ。外でうろうろしているわけにもいかない。
仕方なく、図書館まで歩いて行き、本を読んで過ごすことにした。図書館は暖かい。土曜日だというのに、それほど混んでいない。図書カードを提出して「社会人専用席」を借りる。一人おきに座っているくらい。そこに陣取って本を物色する。目についたのが、是枝裕和『花よりもなお』(角川書店、2006年)。彼の監督した映画の原作らしい。まず小説を書き、それを脚本に描き直し、配役を決めて映画を撮るというのが、彼の手法のようだ。
これが面白かった。落語のような言葉のキャッチボールは、日本語というのがもっている「音」の重なりと慣用語の多様な意味合いが、ズレを生み、誤解を引き起こし、ことばの発信者と受信者の立場の違いがずれていく面白さが、上手に組み込まれている。そうしていながら、赤穂の浪士に対する評判が百八十度ひっくり返るゲンキンな江戸っ子の「江戸の華」への向き合い方、それを仕掛ける長屋住人の智恵のあれこれ。まことに「花よりもなお」面白き江戸の町ってえわけだ。
途中で、図書館の公衆電話からカミサンのスマホに電話をいれるが、たぶんスイッチをすぐ切るのであろう「つながりません」というアナウンスが繰り返される。結局、一冊を読み終わり、2時。家へ電話を入れると「どこにいるの? 何してるの?」とカミサンの声。帰宅してみると、いるはずの私がいない。お昼を食べた形跡もない。何かあったのか? と思ったそうだ。ボケのはじまりあった。
明日のレポートがまだできていない私は、すぐにパソコンの前に座って、(3)を仕上げ、(4)に取りかかる。こんなに「原稿に追われる」のは、二十年ぶりか。夕飯を挟んで、結局仕上がったのは午後9時半ころ。プリントアウトして、16ページになった。
翌朝近所のコンビニのコピー機で冊子にして、もっていった。もちろん私のレポートも順調に運び、2日間の勉強会を終えて、つい先ほど帰宅した。やれやれ。いつまでこんなことができるか。とりあえず、車のキーと家の鍵を一緒のホルダーにまとめた。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿