2020年1月18日土曜日
模倣と自律とプレーモデル
今日(1/18)の朝日新聞、元サッカー日本代表監督・岡田武史の「指導法」に触れた記事。岡田はスペインの強豪チームを率いる指導者に次のようなサジェストを受けて「目からうろこ、の衝撃を受けた」そうだ。サジェストというのは、
「スペインにはプレーモデルというものがある。その型を選手が16歳になるまでに身につけさせる。その後は選手の自由にさせる。日本にはその型がないのか?」
というもの。岡田は、こう受けとめた。
《順序が逆だったと感じた。子どものときは教え過ぎずに自由にドリブルなど個人技を磨かせ、高校生から監督のチーム戦術にはめ込む。だから、選手が状況に応じて柔軟に判断するのが苦手で監督の指示を仰ぎがちになる》
サッカーというゲームは野球のような場の分業がない。全体の敵―味方とボールの動きの中で自分のポジショニングをし、味方へのサポートなどを状況に応じて自在にしなければならない。スペインの「プレーモデル」はサッカーというゲームにおける人の動き(の原則)を体系化していて、それを16歳までに習得させる。
つまりまず、ヒトが何がしかのものを習得するときの模倣のお手本を示して見せる。選手は、ゲームにおいて蓄積されてきた「原則的なパターン」その「体系的なかたち」を習得しながら、模倣する本人自身がプレーモデルの構造というか構成というか、ベーシックなパターンからユニークなモノまでの位置づき方や積み重ねの法則性、味方メンバーの動きとの同調性や意表を突く瞬間など、じつは、身に染みるように自分のものにしていく。
模倣が選手の身の裡に入っていく過程には、同時に、身の裡で発酵し芳醇化してわがものにしていくことが含まれている。つまり、自律の胚芽であり、いずれの自律である。
これは、幼い子どもが言葉を習得してく過程と酷似している。シャワーのように言葉を浴び吸収する。ことごとく模倣なのだが、単純な模倣ではない。言葉のシャワーを浴びながら「文法」にあたることを体得する。自分なりに遣ってみる。それが笑いをさそったり、大真面目に受け止められたり、怒りを誘発したり、揶揄われたりすることによって、何がしかの法則性を身の裡で組み立て、こうして、自分の言葉を身につけていく。
幼い子どもに話しかけるというのは、プレーモデルを提示して習得を促している振る舞いである。その振舞いの芳醇さが、文化資産として受け継がれ、言葉ばかりでなく、感性や感覚、感情の豊かさや鋭さ、あるいは安定と静穏さに結びついてくる。それをそれぞれの家庭は、それぞれのやり方で継承しており、同時に社会は、地域や学校やメディアやあらゆる社会関係を通じて、社会全体と時代全体で子どもを育てているのである。
自律とか主体性ということを模倣と分割して、個々人オリジナルの内発的なことと考えると、模倣過程に自律過程が内包されていることに気づかない。模倣が、単純に真似と見なされている間は、監督と服従、または未熟な模倣という関係にしか見えない。そのように狭く見ていると、一昨年の日大のアメリカンフットボールの監督・コーチと選手の関係ように、「つぶして来いと指示をした」か「指示はしていない」かという関係しか目に止まらない。
だが、模倣するということは、実は同時に、選手の中で、その模倣の一つひとつがどういう関連で位置づいており、他者のどのような動きに連動して必要とされたり無用とされたりするかという、規則性を自分なりに組み立てている。それが自律の原基となり、言うまでもないが、才能を磨く地点でもあり、あるいはまた生まれ持った才能の違いが現れる場面でもある。ここに結実するかどうかが、敵味方が入り乱れて攻守が目まぐるしく変わるゲームにおいて、監督・コーチがもっとも関心を払うことになる。
私はいま、サッカーのことではなく、学校の教師と生徒が、社会関係を身につけていく過程として考えようとしている。岡田武史がいうように、「監督の戦術にはめ込む」というのは、選手をコマとして(監督のイメージするように)動かしてゲームを組み立てようとする、支配的な発想である。つまり、子ども・生徒がプレーモデルを知らないままに高校生になって、監督やコーチや教師のいうことを聞けというパターンは、じつは、日本社会における大人のプレーモデルでもある。そこに岡田武史は気づいて、モデルチェンジをしようとしていると思われる。
社会の秩序に気を払う役人や政治家や企業などの上に立つ人々は、果たして庶民が自律することをどれほど評価しているのか、ときどき疑問に思うことがある。子どもが、生徒が自律していないと嘆く大人がじつは、(子どもや生徒の)自律をさほど望んでおらず、要するに時分(大人)のいうことをきけと言っているにすぎないことが、多いのではないか。
その人たちにとっては、規律訓練で「しつける」ことができないのであれば、庶民は動物化しているとみなして、環境管理型で秩序維持を組み立てていく方が、面倒抜きに「きちんと管理できる」。そう思っているかのような社会施策がどんどん広がっているようにみえて、我知らず、恐ろしくなる。
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