2020年1月14日火曜日
薫陶を垂れる、あるいは自己陶冶を促す
昨日のブログに書いたことが、ふと気になった。「ささらほうさら」のレポートについてリョウさんが指摘したことは、私にどう作用したか。リョウさんのサジェストは次のようなことであった。
《文章で書いて読んでいただく批判的論述に、kさんが折を見てエクリチュールで反論とか異議を挟むのなら、たとえその批判的文章がほかの方々に見ていただいているものであっても、クールにやり取りができるであろう。だが、皆さんの面前でやりとりするのは、言葉の選択も修正が利かないし、ついつい余計な方向へずれていって、引っ込みがつかないってことだってある》
リョウさんは「それにkさんが耐えられるかどうか」と心配していたのであった。
当初、私が用意したレポートは、「ある現場教師への違和感と教育モンダイ」と題した『ささらほうさら・無冠・第45号』。昨年の12/16から12/31までに記した13本のエッセイをまとめたA4版28ページ。
「第一部・問題浮上のいきさつ(1)~(5)」は、kさんから依頼された「査読原稿」を読んで私が感想を書き送った2カ月後に、kさんから「第二稿」が送られてきた。それに感じる違和感を書き留めて、私自身が過ごしてきた教育モンダイを眺めてみようというエッセイ。kさんへの違和感を手掛かりにしているから、彼に対する批判的な言葉が各所に表出している。
「第二部・「学校の変容(1)~(7)」は、どうモンダイになるのか」は、kさんがとりだした(7年間の)「学校の変容」の文言の一つひとつを吟味して私の経験則と照らし合わせ、kさんのスタンスの問題点を浮き彫りにしている。
そしてリョウさんのサジェストもあって改めて作成したレポートは「カナリアを育てる」と題した『ささらほうさら・無冠・第46号』。朝日新聞の企画記事「カナリアの歌(7)」の最終回手掛かりに、やはり教育を巡る時代の変容を主題にしたエッセイ。A4版16ページである。
「順調にレポートを済ませた」と昨日ご報告したが、やっと終わったという安堵感を述べたもの。じつはそれが、どういうインパクトを持っていたかいなかったかは、わからない。ただ、前半はいろいろと現役や元現役教師の思いを刺激したのか、割り込みの発言があって賑やかであった。おやこれでは全部がご披露できないぞと感じたので、端折りながら要点だけを追いかけ、後半部分(3)の「時代の変化」の4点と(4)の「文化的階層化」に正対面して、エリート教育と大衆教育とを一緒くたに論じるなという部分とを、ほぼ全文を読むように話し通して、時間いっぱいになってしまった。
帰りがけにリョウさんが「なに、あれ、3日間で書いたの?」と聞いてきたので、それなりの評価をしてくれていると感じたのが、安堵感につながっていたのだと、思っている。
さて、ここからが今日の本題。
『ささらほうさら・無冠・第45号』と『ささらほうさら・無冠・第46号』との違いは、なんであったのかということ。いずれも「ささらほうさら」の参加者にはお配りした。
ただ「45号」の方は、皆さん目を通してはいない(と思う)。初日のレポートと、宴会、「近況報告」と、夜の11時ころまでスケジュールはつまっていて、その間にお酒は飲むし、温泉にも入る。同じ部屋でのおしゃべりも絶えないから、とても目を通している暇はないのだ。でも、kさんだけは(たぶん)読んでくれたとは思うが、それに関してのリアクションは耳にしていない。すぐにリアクションのないのが、エクリチュールのいいところという、リョウさんの指摘が生きているのだと思う。
そのうえで、ぼんやりと私が思ったこと。
(a)批判するというのは、どんなふうに論点を並べても論者の論題に対するスタンスは浮かび上がるが、批判されている人の姿が描き出されるわけではない、ということ。つまり、批判されている人のモンダイは批判されている人が自ら描き出す以外、明白に浮かぶことはない。自己陶冶が回心を引き起こす。
言葉のキャッチボールは、ロゴス(ことば)が並べられてはいるが、まず送り手の身の裡の感性や感覚を経由してから繰り出される。それがどう表出されているかは、言語能力や表現力や聴き手との間の信頼関係や憎悪の在り様がどうかによって、異なってくる。当然「誤配」も生じる。
聴き手にとっては外からの言葉も、また、肌の感性や感覚で受け止めて、身の裡の感情や信条、論理や経験則や思念の層を通りながら受け止められていく。相手の意図するところを正確に受け止めているかどうか、誤解しているかどうかは、キャッチボールが繰り返されないとわからないし、繰り返されたからと言って、わかるものでもない。
だから(日本人がというか、どこの国の人も似たようなものだと近年感じるが)、よほど互いに敬意を抱いているか、遠慮している関係でないと「議論」など成り立たない。討論はほとんどそれぞれの論者の言いたいことを一方的に繰り出すだけ。相手を叩く。他人のいうことに耳を傾けない。違った意見はfakeだと斥ける。あるいは、ものごとを知らないと一段高い所から教え諭すようにして、自説を主張する。
人の話に耳を傾けて、しみじみとその方の径庭に思いを及ぼし、わが身を振り返るという作業は、むつかしい。我田引水のように聞こえるかもしれないが、今ここでやっているように文章に書き落とし、朱を入れて書き直し、しばらくたって読み返してさらに手直しをし、そのように自問自答して、ふと気づくとヒトの言葉がわが身に染み透っていたというふうに、キャッチボールはすすんでいる。
(b)ところが、朝日新聞の記者が書いた文章を手掛かりにしたエッセイは、レポート演者の「論題」に託した演者のスタンスが表現されると同時に、聴き手の胸中にイメージが胚胎し、それぞれに対抗的な自分の姿が浮かび上がる。その、じぶんの経験と照らし合わせるときに組み込まれてくる他者(演者や記者や記者が取材した人)の思いや立ち位置や振る舞いや作用が、身の裡に浸透していく。
それを、第三者からみたら「薫陶を垂れる」とみることができるし、「自己陶冶がなされている」と表現することもできる。つまり、コミュニケーションがそれとして絡み合って、「かんけい」が構築的にというか、前向きの作用として働いていると言える。
別様にみると、新聞記事という媒介項をおくことによって、私もkさんもリョウさんも、他人事のようにとりあげられている「論題」を、銘々の身の裡を経由して取り出している。その他人事のような立ち位置が、その「論題」によって引き起こされる感情や感覚のざわつきを抑えて、静かに身の裡のあれやこれやを対象として見つめる冷静さをかたちづくるのかもしれない。
私のレポートが、そのような効果を呼び起こしたかどうかは、わからない。リョウさんの質問も、まったくそんなことを意図しておらず、私の手前勝手な「誤解」かもしれない。それでも、「第45号」を「第46号」に代えて良かったと、私自身が得心しているのは、「45号」の「論題」を「46号」に書き直したことで、私自身の心裡の整理がなされ、見晴らしをよくしていると感じているからだ。
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