2020年1月22日水曜日

文化誌という放浪


 奥野卓司『鳥と人間の文化誌』(筑摩書房、2019年)は、鳥にまつわる博物学の本である。博物学というのが、これほど気分気ままに放浪するものだとは、意外であった。花鳥風月から絵画、鳥の表象、江戸期の「鎖国」概念の転倒が民衆史からの視点であったことや、鵜飼のはじまりが長良川という話は、明治期の創作であること、鳥を食べるという作法から鳥に似せて空を飛ぶという飛行技術、あるいはサイバネティクスの起源まで、話題はほとんど放浪しているように移ろう。


 この方、情報人類学の専門家と称しているから「サイバネティクス」が本来の帰着点だったのかもしれないと、最終章で気が付く。だとすると、どうして、枕草子や祇園祭の鳥山から話をはじめ、若冲や江戸期の博物学にこだわるのであろうか。ひらひらと読みすすめ、言葉がするすると頭の表層を通り過ぎていく。これほどの文献に目配りが利いているよとひけらかしているだけ。少しも深みへ入ろうとしない。

 放浪というのを私は、誉め言葉としていつもなら使う。渉猟と言ってもいいか。興味関心の及ぶままに、あちらへこちらへと領域をまたいで本を読み漁るのは、年寄りの贅沢の一つだ。だが、表層を眺め渡してめぼしいものを拾って歩くのだって、そのはじまりのときと終わりのときとでは、腑に落ちるというか、モノゴトに対する得心の手ごたえに違いがあろうってものだ。それは、博物学がもっている「せかい」の広さと深みに、わが目の及ばぬ「わからないせかい」を感じるからだ。この著者には、それがない。放浪してはいるが、「鳥の文化誌」という観光見物ばかり。名所旧跡は、しかし、「文化誌」ほどの深みを湛えていない。こんなこともあるんだ。

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