2020年1月2日木曜日
メデタクもありめでたくもなし
奥日光に来ている。息子一家と過ごす恒例の正月だ。孫たちも大きくなって、もう爺婆とは遊ばない。親が世話に勤しいが、兄孫はそれも煩わしいと感じ始めているのか、反抗期に入っている。結構なことだ。
読みはじめた藤原辰史『分解の哲学――腐敗と発酵をめぐる思考』(青土社、2019年)の一節にネグリとハートの「帝国」に触れて指摘した部分が目を引いた。
《……家族、企業、国家によって〈共〉が腐敗すると指摘する。〈共〉とは、the cmmonの訳語、つまり、共有すること(もの)、みんなで力を合わせること、という意味だ。共有するものとは、川・空気・土・植物・動物などの「自然なもの」、情動・協力・知などの「社会的なもの」に分けられる。それらを家族・企業・国家が独占し、〈共〉の潜在力・連結力を弱めている。つまり、腐らせていると指摘する。これとの関連で、家族や国家など同一性を軸に築かれる愛のかたちを腐敗した愛と呼んでいる。ネグリとハートの描く、見知らぬ人にも届く様な「愛」と比べれば、このような閉鎖的な詩はむしろ有害であるわけだ。》
これまで、《家族、企業、国家によって〈共〉が腐敗する》と、逆に考えていた。家族も企業も国家も、共同体だと思うから、その強力な排除的側面が、どう見知らぬ人々と共同性をもつことになるのかで躓いていた。それを〈共〉が腐敗するととらえると、一挙に視界が開ける。藤原辰史の解析を読みすすめるとネグリとハートは、《腐敗を道徳的な意味でとらえず、形態学的にみて、それを生成とセットで考えよ》としているというのだ。
一昨日のこの欄で、寺地はるな『わたしの良い子』に触れて、主人公の心裡へ向ける視線の到達する地点、「良いとか悪いとかという価値判断を離れて、ヒトが生きる心もちって、こういうことなんだと軽くかみしめる読後感が心地よい」と思われた、その根拠が、ネグリとハートの「生成とセットで考えよ」と共振している。
藤原の「哲学」は、そこに留まらず、さらにその先を見据えようとしている。ネグリとハートが「生成」の契機と呼ぶ「腐敗」は「退化」を意味するが、「分解/腐敗」を組み込んでしかるべきだろうと展開する。そして、こう続ける。
《ここに、生きものが発する臭気を嗅ぐことができるだろう。この化け物じみた存在は、自分の身体の一部を腐敗させて、形態を変え、新たなエネルギーを吸収しながら、生きながらえる。しかもそれは、筋繊維が孵化によってちぎれたあと、それが修復する過程で以前よりも太く再生されるように、膨張を続ける。》
そうなのだ。腐敗が再生の契機であり、滅びることが誕生であり、消滅が新生のはじまりという、生きものの辿る変遷過程が、どこまでも繰り返される。つまり、完成体は、ないのだ。家族や企業や国家が〈共〉を崩しているということ、その崩壊破たんが、また、〈共〉の新たな生成となるとき、それが放つ臭気を嗅ぐ。それは、生きものが放つ現実存在の証なのだ。そういう「かんけい」的なかたちでしか、私たちは〈共〉を感得できないのだと、言っているようであった。
息子一家の、孫たちの振る舞いは、メデタクもありめでたくもなしと、ほぼ〈共〉の地平に入り込みつつある爺婆には、感じられたのであった。
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