2020年1月12日日曜日

カナリアを育てる(4)エリート教育と大衆教育とを分けて考えよ


 ★ 様変わり―不登校も出席扱い

  さて朝日新聞(1/8)の1面トップを飾った企画記事「カナリアの歌」の最終回は、2面のほぼ全部を使うようにして、つづいていました。2面の見出しは《生きる力を育む 学校も家も「緩めて」変わる》。やはり不登校の子ども二人を抱えたケース。これにも家族の顔出し写真が添えられています。
 畑を借りて野菜作りをはじめ、子どもたちを連れていく。そのうちご亭主もかかわる。「ホームスクーリングで輝く みらいタウンプロジェクト」というう団体を起ち上げ、行政にも働きかける活動をしていると、アメリカのホームスクーリングに200万人がかかわることを紹介したりしています。つまりフリースクールの別様のかたちです。これは文科省が2019年に学校以外の場で学ぶ不登校生を「出席」扱いすることを全国の教育委員会へ通知したことを反映したのでしょう。

 
 ★ 義務教育って、なんだ?

 結構なことです。学校もホッとしていることでしょう。しかしそれにしても、アメリカの200万人という数字には驚きました。日本の不登校生は16万人。アメリカの人口が日本の約2倍。それにしても、多い。ということは、日本で問題とする不登校とは違うんじゃないかと思いますね。アメリカでのホームスクーリングというのは、とうてい学校に通えない土地に暮らしている人たちや学校教育よりは親が教育する方を良しと考える才能豊かな人たちの子どもや、家庭教師を雇って教育するお金持ちたちがわんさといるのだろうと、思います。あるいは宗教的な理由で、効率の学校にはいかせない、とかも。調べたことはありませんが、アメリカの「義務教育」って、どういう感覚で行われているのでしょうか。どう考えても「国が(子どもたちに)課する義務」というセンスは、見当たらないんじゃないかと思います。
 
 ★ 文化的に余裕のある人たちの自由教育

  藤沢市教育委員会の方が「自分自身も、現場の教師のときは、不登校の生徒に学校に来てもらいたいと思っていた。ただ、すべての子どもにとって、それが正解とは限らない」とホームスクーリングに理解を示し、藤沢市は補助金の支給なども示し始めているそうです。
 「不登校は恥ずかしいことでも、そう特別なことでもない」とエールを送るのが、この記事の一番の狙いだとわかります。「義務教育は国が保障する」ということと、全員が国のもうける義務教育を受けなければならないというのとは違いがある、と国に承知させる時代になったという自立教育宣言の第一歩ということでしょうか。ま、それも悪くはありませんが、それよりも教育への政治からの独立とか、地方教育権限の実質的な自治の在り様など、それ以前のいろんな問題があると思うから、この記事が知的にも文化的にも余裕のある人たちの「自由教育」のキャンペーンに思えてしまうのは、私の僻目なのでしょうか。

 ★ これからの教育イメージ

 この記者・山脇岳志の主張は、もう一歩先を見据えています。中見出しに「一方的に教えない 先生が一緒に学ぶ」とおいて、「これからの教育はどうあるべきなのか」を取材しています。アメリカサンディエゴの高校(High Tech High/ハイテク・ハイ)を舞台につくられた映画の紹介からはじまる。「2000年にできた比較的新しい公立校で、低所得層の生徒が半分を占める」の事例だそうです。
 
 《同校には教科別の時間割や決まった教科書、定期試験がない。どんな授業をするかは教師に任され、課題解決型の学習が中心だ。/生徒たちはチームを作り、保護者などが見学に来る学期末の展示会に向けて作品を制作する》(c)
 と、日本の高校の「テスト偏重」「暗記型」進め方との違いを強調し、
 《同校にはテスト準備の授業はないのに、州の標準テストの成績は平均を上回り、大学進学率も98%だと紹介されている》(d)
 と、持ち上げたうえで、
 《日本の文科省も「主体的・対話的で深い学び」の必要性を打ち出している》(e)
 と移り変わりを見据え、
 《そもそも教師の大半が、生徒の頃に、「主体的・対話的な授業」をけ意見していないのに、それをうまく教えられるだろうか》(f)
 と疑問を呈している。

 ★ 教育行政は変わらないのに

 ハイテク・ハイの高校が(c)のような展開をしていることを日本の高校にも期待するのであれば、「学習指導要領」を取っ払って、教科書も何を使うかは現場の教師に任せるような仕組みを整えてから言ってよ、と私は強く思います。もし文科省もAI時代に対応するために「課題解決型学習」を望んでいるのであれば、手足を縛らないで、大きな学習デザインだけを提示して、あとはお任せとやってもらいたい。1970年の伝習館高校の社会科教師が「教科書を使わなかった」という理由で、3人の教師が解雇処分になったことを私は忘れていません。山脇記者だって、大手新聞の教育担当の記者なのであろうから、そういう日本の教育行政の「縛り」を忘れて、外国から勝手な事例を引っ張ってきて、(f)のように現場教師ができるかなどと、教師を責めるような展開にするんじゃないよと、憤りがこみあげてきます。それとも、1970年代とはすっかり日本政府の教育システムは変わってしまった、とでもいうのでしょうか。
 
 ★ 優れた人たちの教育イメージ

 記事は、上記のハイテク・ハイの取り組みを日本に紹介している活動も紹介しています。
 《「答えがわからない問いって多いと思うのです。だから、先生が一方的に「教える」のではなく、生徒と一緒に学ぶ姿勢をみせた方がよい」》(g)
 と、その紹介をしている人の言葉を引用する。この方、「ソニー勤務を経て、米テキサス州で子育てをしながら、公立短大で教職課程を取り、現地の公立校を見て回った」と経歴が紹介されている、リッパなキャリアの持ち主。
  ハイテク・ハイの紹介をしている方だから、高校生相手の展開を想定していると思う。日本の授業が、「学習指導要領」に縛られて作成された「教科書」に基づくから、やたらと「前提知識」の多い盛りだくさんの内容になっていることを、この方はご存じだろうか。あるいは、結構考えさせる内容をマークシートにして問題を作成してきた「センター試験」の、国語とか社会科の問題をご覧になったことがあるだろうか。国公立の大学を受ける受験生は、驚くほどたくさんの知識を詰め込み、なおかつ、その上に立って暗記だけでは対応できない問題を解いていることが、お分かりいただけると思います。
 つまり、アメリカ式の教授法に容易に転回できないのは、ただ単に、(g)が指摘するような「生徒と一緒に学ぶ姿勢」という小手先の技では、アメリカ文化を受容できないということなのです。まずなによりも、知識量をそぎ落とすことを現場の状況に合わせて教師に選択させなくてはなりません(教科書はどうするの?)。大事なのは、知識・データではない。思考法や推理推論の方法なのだと、学ぶことの重点を移す(学習須藤要領には構わないでいいの?)。これはまさに記者が(f)で危惧するように一朝一夕にできることではありません。
 一つの文化革命なのです。文科省が「主体的・対話的」と言っても、日常の社会がそのように動いていません。企業のシステムも、「主体的・対話的」にかたちづくられているかどうかを、ちょっと考えてみればいい。ただ単に、産業能力だけを「主体的・対話的」に伸ばせといっても、ヒトというのは、そのようにその場のその部分だけを振る舞うってことは、できないのですね。
 先月末の「センター試験・国語」の文章題採点のことについてもお分かりのように、現場の教師だけでなく、教育産業だって大学だって、「主体的・対話的」能力をどう審査査定するかも、定めがたい。それをパターン化すると、「モデル回答」に対する採点でも、大きく(分散的に)分かれてしまいました。高校生も、現場教師も、大学教師のそれも。それほどに文化的な同一性は、拡散的です。
 現実の高校入試の文章題は、500人ほどの受験生の答案(の文章題だけ)を4~6人の教師が採点にあたる。二人一組でまず行い、これは? という答案は、その都度、すぐに全員が頭を寄せ合って「審議」しています。つまり、この学校の「審査・採点」としてはばらつきが出ないようになるのです。全国区の一斉試験を採点するのとは、まったく違います。全国区でそれをやるのは、よほどの文化的な統一性が土台になくてはならないでしょうが、それは、そもそも「文章題」を出題する意図(多様性を引き出す)ことに反しますね。
 
 ★ 教育現場への危惧・疑念

 記者・山脇岳志は懸念を次のように表明する。

 《ただ、「主体的・対話的」といっても、教師の側に探究的な学びを推進するスキルがないと、生徒間の学力格差が開き、従来型の授業よりもかえって悪くなる可能性もある。》(h)
 《まだ教師が十分に自信が持てない場合は、基礎学習も大事にしつつ、ハイテク・ハイのような体系的な手法を試していくよう勧めている》(i)

 (h)を読むとこの記者にも、この手法を受け容れる日本社会の文化状況の全体像が見通せていない惧れを感じていると思われます。
 「主体的・対話的」学びというのが、現実の生活とどこまで結びついているかという不安が漂っています。《先が見えない人工知能(AI)時代の社会を生き抜くには……》という、天から降ってわいたような理由は、どこまで人々の腑に落ちるものになっているでしょうか。あるいはこの記事が紹介するようにアメリカの先進的な試みとして、文科省から「降りてきた」ものが、どこまで教師や現場教師の納得を得られるでしょうか。探究的な学びを推進するスキルを現場の教師が身に付けようとするきっかけを作るとするならば、まず、大学入試などでそれが体現されてこなければなりません。つまり一般論として、この「主体的・対話的」学びを推進しようというのは、無理なのです。受験産業の業者などが懸命に開発を進めているのでしょうが、目先のこととして推進するのなら、エリート教育として特化して考えるしかないと思います。記者の目も、ここに登場する方々も、そのような恵まれた才能と知的力量と文化的資産を持った人たちばかりのように見えるからです。
 
 ★ 社会から読解力が失われている

 (i)は、もう一つ重要な論点を浮かび上がらせます。先ほどのPISAの結果で、「読解力が失われている」ことが明らかになりました。というか、それ以前から「東大ロボ」の開発者であった新井紀子・国立情報学研究所教授(東大ロボ制作研究者)の指摘(『AIvs教科書が読めない子どもたち』)が「(日本語の)読解力」そのものが落ちていると指摘し、「読解力をつける」スキルの養成へ乗り出しています。「日本語が読めない」のが半数を超えるというと驚きますが、新井の指摘は切実でした。「教師が自信をもてない」どころか、自信を持つ以前の、日本語の読み書きという土台のところが、出来ていないのです。それがじつは、(h)の惧れになっているのではないかと私は読み取っています。
 
 ★「ゆとり教育」の総括は無理か

 いつからそれがそうなったのか、すっかり私の印象ではぼやけてしまっていますが、「ゆとり教育」ということが叫ばれはじめたころから、人それぞれの学びという「ゆとり」が子どもたちに与えられました。できる子はできるように、できない子はそれなりに学べばいい。決まった時期に決まったことを学ばなくても、人生は生涯が学習です。いつでもその気持ちになって時に学べばいいと、社会教育が整えられていきました。学校での学習が、暗記型か課題解決型かはどうであっても産業能力開発的に向かい、生徒や保護者、とどのつまりは教師にとっては、就職や大学進学に有利かどうかが主要な関心事となっていきました。「探究心」という向学心は、余裕のあるエリート級の生徒たちの味わう学習法になっていたのです。「ゆとり教育」はその後に消えていきましたが、それなりの効果はあったのではないでしょうか。ここも本来なら、文科行政を取り仕切る方々が、「ゆとり教育」とその功罪というのを総括してから、土台のところから国語力をつけるところから再検討するべきだと私は思いますが、今の文科省のようすをみると、まず無理でしょうね。
 ならばせめて、マスメディアの大手新聞の教育担当者が、教育現場を視野に収めながら、文科行政を振り返って「これからの教師はどうあるべきでしょうか」と、一般論ではなく、大衆的な国語力の土台の形成とエリートの養成とフリースクールを含む学校の形態を、描き出してみることではないでしょうか。

 ★ カナリアを育てるな

 そのとき、せめて私たちがカナリアを育てているのではないと確信できるような、独立不羈の精神を備えた生活習慣の振る舞いをする若者たちを大衆的に育てるよう、願わずにはいられません。

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