2020年1月20日月曜日

行き場のない「路上のX」


 やはり桐野夏生『路上のX』(朝日出版社、2018年)を読む。親に見棄てられた女子中学生が、カツカツで暮らしている親戚に預けられ、どう生きていくか。家を出るしかない。一夜を過ごすのにどうするのか。お金がないのにどうしのぐか。都会の路上は、高校生年代の女性には、あの手この手の誘いと罠が待っている。他人の悪意を知らない子どもが果たして無事に乗り切れるか。この小説のタイトル「路上のX」は、果たして主人公のことなのか、彼女を受け容れるポン引きや中年のエロ男のことか、あるいは、渋谷の街を行き交う、他人のことに無関心な人々のことなのか。いろいろな読み取り方ができる、その幅だけ、ヒトの生き方の幅はあるのだろうか。

 
 去年のことであったか、大阪の小学生が行方不明になり栃木県で保護された事件があった。このとき、この小学生と一緒に「監禁」されていたという18歳は、どうしてこの男と一緒に住んでいたのかと話題になった。果たして「誘拐」と呼んでいいのかどうか。こうした小中高校生の家出は、何も近年始まったことではない。昔からあった。「路上のX」の主人公と同じかもしれない。

 かつて、1970年代半ば頃までは、中卒で住み込みで働くというのが珍しくはなかった。しかしいまは、どうなっているのだろう。ほとんどが高卒とあって、中卒で働くのは肩身の狭い思いをしているのではなかろうか。彼ら彼女らのうちの幾人が、仕事をもって感じることができるような暮らしを送れているだろうかと、心配になる。彼らが、真面目に働くことを大切なことと感じるような暮らしをしていてくれれば、貧乏そのものは、それほど苦痛ではあるまい。むしろ、世のたたずまいが、まじめに働くことを、つまらぬ人生と決めつけてくるような気配を湛えている。それに負けてしまうんじゃないかと、高校生活も続かなかった中退生たちのことを想いうかべて、思う。

 なんだか、行き場のない子どもたちの、一時的にでも住まう場所だけでも「子ども食堂」のように設けられないものかと、桐野の作品に登場する行政の杓子定規を思い出して、ため息をつく。裕福な社会の思わぬ溝に落ちてしまった(親元を出て家出したいと思っている)子どもたちを、その子どもが自ら選択した道のように見ているのは、偶然の不運を体感したことのないメデタイ人である。わたしもその一人ではないか、とどこかから声が聞こえる。

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