2020年1月27日月曜日
文化的・平和的に「防衛」を考えよう
昨日のSeminarは、Hさんの「日本の防衛というモンダイ」。発題のときからHさんは、皆さんの考えを聞きたいと、いたって控えめでした。
まず「国を守るとは」と切り出します。「国民の生命・財産と領土・領海・領空を守り抜くための取り組み」とはじめ「外国からの違法な侵害はやらせない」と引き取りながら、「宗教や国体(国柄)・文化は?」と疑問符をつけて提起しました。しかしこの、定番的なものの言い方は何だろうと思いましたね。「国を守る」という「防衛」の基本理念が怪しくなっているというHさんの認識があるのか。あるいは、人ぞれぞれの思い入れがあるから、その基本から確認してから、話しをすすめようと考えていたのだろうか。「結局は、子や孫を守る」こととHさん自身の「防衛」概念をまとめましたが、「国防」と考えるためには(世界情勢の認識とともに)何段階もの媒介項が必要なように思えました。
それにつづいてHさんは、軍備を保有しないコスタリカのことや軍備を保有しないでレジスタンスで対抗するという森嶋通夫氏の説を紹介したりしたのちに、防衛は占領軍に委ねるとした日本国憲法の感覚が日米安保条約に引き継がれて、アメリカの保護国のようになっている日本の防衛の現状を指摘しました。つまりHさんは、第二次大戦の結果が現在(の日本防衛)に至る曲折を作り出している。それが今に引き継がれて日本が自国の防衛をアメリカに依存するほかない状況になっている。あるいはその経緯を(トランプのように)忘れて日本の「さらなる負担」を要求してみる言説になっています。日米協議の齟齬になり、その行方を見ている私たちの自尊心を傷つけ、信条を揺さぶり、収まりの悪い心もちを醸し出しているとみているようでした。Hさんの言葉の端々に、しかし、それでいいわけがないという悲憤が噴き出しているように感じました。
それを言葉にしたMさんの発言が、「わだかまり」の正体をみせてくれたように思います。
《北朝鮮はいまにも日本を攻撃するような挑発的な物言いをしている。中国は、ウィグルにゲットーを作り何百万人も収容して、ウィグルの宗教から文化まで漢民族風に作り替えるばかりか、拷問を常態化して臓器売買にまで手を延ばしている。あれはいずれ、尖閣ばかりか沖縄や日本にも覇権を及ぼす脅威にみえる。それに備えるだけの力を(アメリカに依存するのではなく)もたなければならないとすれば、北朝鮮や中国の軍事的脅威に対抗するためには、手っ取り早く核装備をアメリカから借用して、抑止力として調えるのがその他の軍事装備を用意するよりも現実的だ》
というのが、「私見ですが……」と断って披露したMさんの「防衛モンダイ」でした。
たしかに北朝鮮は、日本(にある米軍基地)への攻撃をいつ行うかも知れないという「狂気」を湛えています。あるいは中国をみても、香港政策もそう、台湾への脅しもそう、そしてウィグル自治区やチベット自治区への漢民族の侵略的進出も、「一帯一路」という世界政策の覇権主義もそう。周辺国が中国への警戒を口にするに足る問題に思えます。
だがそれはすぐに、軍事的な防衛のモンダイなのか?
少し違って、ここのところに来て初めて私たち日本人は、アジア民族文化の異質性に出くわして、わが身との、あまりの違いに驚いているのではなかろうか。つまり、私たち戦中生まれ戦後育ちの戦後日本人の、自身の在り様を外の鏡に照らして見つめ始めているように思ったのです。戦後、アメリカによって非武装化された日本は、経済一本やりで「復興」を成し遂げ、「一体どちらが戦勝国かわからない」と一時アメリカ人に嘆かせたほどの高度な消費社会を築き上げました。その私たち「自身の在り様」というのは、世界の軍事的緊張への対応をすっかりアメリカに預けて、のほほんと経済社会の豊かさに邁進し、浸り、人類史上初めてといっていいほどの「一億総中流」と呼ばれた、多数の人が贅沢な暮らしを味わってきたのでした。
そしてふと気づくと、世界は常に軍事的な争いに奔走し、中東はすっかり日々を戦場の中におかれ、多数の人々が「難民」として流浪するようになっていたのです。「ふと気づいた」のは、やっとここにきて私たち(戦後日本人)の胸中に、独立不羈の心もちが萌し始めたからではないかと、私は思っています。それには、(世界の警察官としての軍事的な、政治的な、経済的な、文化的な)アメリカの相対的地位の低下が(私たちの胸中にも)起こって来たからでしょう。1990年以降の世界は、グローバル化という経済文化的な「アメリカン・スタンダード」が世界を覆う期間であったとともに、(皮肉なことに)アメリカが世界の中心軸から緩やかに滑り落ちはじめた期間でもありました。中国などの「途上国」が浮上してくるとともに、「中華帝国」というかつての世界の中心が誇りを取り戻す過程でもあったのですね。
日本という「わが身」は、すでに人口においても、経済的な活動においても中心の座を離れ、ゆっくりと(かつての資産を食いつぶしながら)凋落する過程に入っているようです。そうなって初めて、「独立不羈の精神」を想い起すのですから、不思議といえば不思議、妙といえば妙な話です。だが果たして、贅沢になれた「わが身」を、「独立不羈の精神」の誇らしさと引き換えに、政府歳出の3割ほどを防衛費につかい、困窮に耐える暮らしに落としてやっていけるでしょうか。
私のみるところ、「狂気」の北朝鮮は1941年(太平洋戦争開戦前)の日本のような状況に追い込まれているように見えます。日本を攻撃する脅威を感じるより先に、生き残りに懸命になっていて痛ましい感じがする、というのが正直な感想です。
また、中国の覇権主義的な振る舞いに脅威を感じはするが、それは軍事的膨張というよりも「中華思想」的な威圧感が復活しているようにみえます。日本はいつでも、世界の隅っこに位置して世界の中心になったことがありませんから、フランスのような鷹揚さも、アメリカのような世界の警察官役も、中国のような権力主義的な振る舞いにも、馴染めません。でもその渦中にいて、わが身のことは自身で考えて決定しろと迫られていることは、間違いありません。どの国も、自身のことを考えるので、精一杯なのです。
となると、私たち自身の身に馴染んだやり方でコトをすすめていくほかありません。身に馴染んだやり方って、なに?
「平和ボケした非暴力主義」です。その背景には、民主主義と平和主義と経済活動に勤しんだ勤勉さがあります。それ自体は、世界の緊張を和らげることに資するだけでなく、人類が生き延びてきた根底的な「暮らし」の文化が根づいています。たぶんに自画自賛的な趣があるとはいえ、「清潔で気遣いの」できる「秩序の安定した安心」な「お人好しの日本」を押し立てて、世界の文化的な交流に貢献する。
Hさんが後に指摘した様な、押し寄せる中国人にイヤな思いがするというのは、日本人の身に刻んできた文化的な違いが(来日する中国人を鏡にして)浮き彫りになっているのだろうと思います。それは逆に、長い目で見たら、中国人にも何がしかの文化的な影響を、注ぎ込んでいるに違いないのです。世界が交流するって、そういうことです。
「アメリカから核を借用して」というのは、軍事的な対抗軸で東アジアの当面を眺めてみたら、そういう方策も一つの案だろうとは思います。だが、戦後75年をすっかりアメリカの属国のように振る舞ってきた日本は、いましばらくアメリカの傘の下に身を置いて、この後百年ほどの文化的な戦略で世を凌いでいくことを考えていく方が、いまの「国体(国柄)」に見合っていると思えました。
もちろん私見をいえば、ポルトガルのようにして「かつてジパングという平和ボケした人々がいた」といわれるような国にしていってもいいんじゃないか。そんな夢想をしたものでした。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿