2020年1月21日火曜日
男に分からない女の生理
スウェーデン映画『リンドグレーン』(ベニアレ・フィッシャー・クリステンセン監督、2018年)を観た。原題は「Unga Astrid」、スウェーデン語で「若きアストリッド」。アストリッド・リンドグレーンが、「長くつ下のピッピ」の作者と聴くと、ああ児童文学作家か、なんとなく聞いたことがある、と思う。「なぜ子どもの心がわかるの?」と、この作品中の年老いた作者に読者の子どもから手紙が来る。
農作業に明け暮れる日々の暮らしから、文才を認められて新聞社の手伝いに採用されて町で働き始め、離婚調停中の編集長と恋仲になり身籠るが、村で生むことが適わず、海をわたってデンマークで母となる。こう粗筋を辿ると、ありきたりのメロドラマになってしまうが、子をなしながら母となることの径庭が上手に描き出されて、日常の振る舞いのなかに人の心を感知し、会得する源があると推測させる。この、身をもって得ている日常がわたしという母であり、その孤絶と不安とそのところどころにほんの少し垣間見える希望とが、人が生きるということなのだと、私に伝わってくる。
ただひとつ、映画を見ている男である私が刃を突き付けられたように感じた場面があった。それを語ると、この映画の秘密を解き明かすようになるので、直には触れない。だが、その場面でアストリッドがとった振る舞いは、子を産み難局を乗り切ろうと何度も海をわたって、、母として子と会おうとしてきたことを男が難なく乗り越えてしまう、男女の性差ともいえる溝の深さに気づく。その性差の溝の深さが、あっ、わたしにはわからないとわかったように思った。
喜寿になっていまさらと思われるかもしれないが、「♫男と女のあいだには深くて暗い川がある」と改めて感じている。と同時に、そのあたりの性差が何によって生じているのか、進化生物学の論展開も、わかったつもりになって飛び越えてしまっている。いまだ解き明かしてはいないように思えた。
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