2020年1月25日土曜日

ものの見方の硬さ


 今週は、人と会って話すことが多かった。21日には大学の同窓生、23日には9カ月ぶりという親しい方、昨日はご近所のストレッチ同好会の方々、そして今日はSeminarがある。私は、人とつきあうのが苦手。世間話ができない。だから、黙って座っているだけで何となく気持ちが通い合うような人と時間を過ごす方が、心地良いと感じる。歳を取るごとに、その私の気分は亢進するようで、これも困ったものだと思っている。


 議論を聞くのは、いやな方ではないと思ってきた。だが、耳が煩わしいと思うようなことがあった。自分のものの見方に確信に近い「信念」のようなものを持っている人が、ある本を読んだ感想を述べた同窓生に投げかける言葉を聞くと、いや参ったなあ、どうしてこんなに「確信」をもてるのだろうと、不思議に思う。
 一刀両断。パカパカと片づける。

「いや、そういうのは陰謀論だよ。信用できないよ」
「植民地経営が持ち出しって言ったってねえ、政府の財布からは持ち出しでも、進出企業の財閥はたんまり儲けてるんだから、財政論だけでは片づかないよ」
「そもそも軍事費まで含めて財政支出が多かったっていうんだから、そんなの経済計算て言えないよ」 という調子。
 聴いてる方は、石橋湛山がそれほどの粗末な(植民地経営に関する)経済計算をしているとは思えないが、直に自分で(その文書に)目を通したわけではないから、黙って聞いている。それよりも、この人の「確信」の根拠は何よ、と疑問符がついたままだ。

 今日のSeminarでも、そうしたやりとりが出てくる可能性がある。講師は(私と同じ年齢の)Mさん。お題は「日本の防衛というモンダイ」。「防衛問題」と構えているわけではないから、面白そうなのだが、「所用があり、遅刻します」と伝えてきた参加者が、

 《テーマには大変興味があり是非冒頭から参加したいのですが・・・平和ボケした人間にかつを入れたいのです。防衛力なくして平和はのぞめないというのが私の持論。素手で守るなんて護身術ぐらい。それも刃物には勝てない。きれいごとでは身は守れません。防衛力=攻撃力と短絡的にいうノー天気な政治家こそ退治すべき存在。税金で護衛なんかつけるな。防衛力とは抑止力であり反撃力なのですから。》

 と、義憤にかられるように付け加えている。なんとなく、国家観の「紛争」と個人間の「争い」とを同列に考えているみたいで、同じ次元で言葉を交わすのは、とてもできないと感じている。
 こういう方が「持論」を展開すると、たぶん、聞く耳をもたないのではないか。私なぞは、「平和ボケ」といわれても仕方がないほど、戦後の社会をボーっと生きてきた。それは、あの戦争をした親世代の「遺産」のように思うし、その「遺産」を受け継いでこそ、戦後の経済一本やりの日本社会の展開があったとみているからだ。
 だから「持論」がどこから繰り出されるかによって、やり取りが交わせるかどうかが分かれる。まして、「持論」を聞きたいわけではない。どうしてそう考えるかの根拠を聞きたいのだが、「確信」をもった方は、たいてい、ご自分の「確信の根拠」は自明のこととして、振り返ろうともしないことが多い。

 そういうわけで、また私の人付き合いの悪さは、いっそう亢進しそうなのだ。困ったものです。

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