2023年2月1日水曜日

原点に立ち返るというテツガク的視線

 コロナは「三密」にご用心というのは、都会地に人が密集することへの天の警鐘であった。為政者は決してそれを口にしないが、庶民はそう感じ、それに対処している。地方への移住が増えている。リモートで仕事が出来るというデジタル化を伴った働き方の変容も力になっているそうだ。

 地方の方はというと、子どもが都会へ出て暮らしはじめることもあって、人口減少というだけでなく限界集落を経て、廃村のようになっていっているから、移住は大歓迎のはず。通常ならそう思うが、30年日本に在住したBBC特派員は「外国人も、この土地に馴染んで貰わないと困る」という老人たちの発言に戸惑いを隠せない。どうしてなのか。

 私は、カミサンの実家が高知県の山奥、四国山脈を挟んで愛媛県と境を接する標高800m、結婚した頃は「四国のチベット」と自嘲するような呼び方をするほどの辺境にあったから、限界集落の現実的進行を盆暮れの帰省とは言え、目にしてきた。

 それが今まで持ちこたえてきたのには、日本経済の高度成長と列島改造と高度消費社会への突入とその破綻という、私たちが人生で歩んできた社会の変貌と軌を一にする歩みがあったからである。カミサンの実家、高知県の檮原町の半世紀をざっと俯瞰してみると、1970年頃は約7000人だった人口は年々着実に減少し、今(2020年)は半減、3400人弱になっている。老齢人口と生産年齢人口を比べると1:0.9。支える人口の方が少ない。

 しかしこの間、交通アクセスは変わった。半世紀前には(高知駅から40分ほどの)最寄りの国鉄駅から檮原町の中心部まで、幾つもの峠を越えてバスで4時間かかった。そこからバスを乗り換えてさらに1時間、バス停から山道を歩いて30分というのが、初めて訪ねていったときの行程であった。それが今は最寄り駅から1時間である。トンネルを掘り、二車線の道路が中心部まで延びている。町の中心部から実家までも、半分ほどの時間で辿り着く。

 町の中心部は、隈研吾の建築した町の庁舎、図書館、道の駅、宿泊施設などなどで名が知られ、その一角だけは電柱も取り払われ整備されている。東京オリンピックに向けた国立競技場の建て替えで建築家の名を知られたこともあって、外からも多くの人が訪ねてくるという。これは、檮原産の木をふんだんに使った隈研吾の建築開眼の地と記されている。それら建築の一部は、すでに改築にまで話が進んでいるほどの年期を重ねている。その庁舎の前に建つ木造の歌舞伎場は,古くからの伝統芸能・檮原歌舞伎のために今も保持されてきている。僅かな財源から少しずつ捻り出して、半世紀を経てここまでやってきたとご苦労を感じさせる佇まいである。また、図書館の書架の並びは、驚くほどの目利きを感じさせる。何だこれだけの本があるなら、毎年夏を過ごす半年だけでもここに避暑にきて本を読んで過ごしても良いなあと思わせるほど、魅力的であった。

 TVの番組でも、活性化を取り戻そうという地方のいろいろな試みが紹介されている。住む人のいなくなった古民家を改築して、安く提供する。休耕地を借り上げて農業に就業する人たちを応援するネットワークをつくる。子育てを支援する事業を興し、若い人たちの移住を促進する。それらを支援する補助金を最大限活用して、財源を手繰り寄せる。映像で伝えられるのは、日常的なご苦労を省いたものも多いから、漫然とみていると、ユメのような新天地に思われるかもしれないが、そうはなかなかうまくいかない。

 だから他方で、地方へ移住してみたものの、農業や林業をうまくこなすことが出来ない、あるいは現地の人たちとうまくやっていけないという理由で、挫折する人たちも4割ほどいると報道されている。

 地方に暮らすというのは、ヒトの原点に戻って暮らしを立て直してみようという試みである。単なる転職ではない。どうして原点に? と言うか。移住には、子育ての環境や仕方も、食べていくのにも、dが移植する、出来合いのものを食すというのと違って、自前で育て調達し、調理するという変化も加わる。働くということも、サラリーマンではなく、何から何まで自分ではじめて、自分で始末をつけることになる。あれもこれも、根源から問い直そうという気分が,実は底流にある。それは現代社会批判とも言える内実を持ち、しかもそれは、自分自身の感覚や感性、思考などへの批判も同時に含み持つものとなる。だから、単に転職というよりは生き方を変える大転換を意味している。その覚悟なしで,ただ単に住む場所を変え、環境を変える程度に考えていると、ヒトとの悶着に出くわして,期待に反して頓挫することになる。

 果たして私たち老人は、そうしたことを若い人たちに伝えるようにしてきただろうか。目前のノウハウだけに関心を寄せ、根源的なヒトの営みを「外注」してきたのではなかったか。

 昨日のこの欄で紹介した映画『イニシェリン島の精霊』で記したような、人が暮らすプロセスには、ハレとケのバランス、平々凡々の日常と爆発するタマシイの発露、同じ所にとどまっていられないヒトのクセが、さまざまなモンダイを呼び起こす。そういうことも、どう対処してきたろうかと巡る。それを避けてはヒトは暮らしていけない。

「自然(じねん)」と「自然(しぜん)」という絶対矛盾を身の裡に抱え込みながら、生きてきた航跡を振り返ってみないことには、「未来」を紡ぐことは出来ない。

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