2018年6月10日日曜日

社会関係からくる男女の性差もチョッピリ感じて


 若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社、2017年)を読む。芥川賞を受賞したときに図書館に「予約」したのだったか。半年遅れの到着。一日で読み終えた。


 高齢になっての受賞とメディアは報道していたが、一読私は、あっ、これは私と一緒だと思った。このブログがそうだが、なぜ書くのか、なぜ自分の輪郭を描き出すような文体になるのか、なぜ日々の出来事が一つひとつわが来たりし径庭と重なって、子どものころのじぶんと向き合ったり、青年のころの恥ずかしい自分を想い起したり、あるいは亡くなった母や父と、兄弟と言葉を交わすような場面と出くわしたり、そうして胸中に行き交う言葉は、どこから発せられているのかわからないが、ことごとくがわが来たりし間に出逢ったコトゴトに定められた如くに生きてきた己の身の裡から出てきているようで、それがまた、己自身のありようがつかみどころのない茫洋とした世の中の断片の集積と言えば言えなくもない。

 若竹千佐子はその身の位置を、46億年の流れの中においてみようとマッピングする。それも私の好みに合致している。あるいは、わが身の「意味」をつかみたいという志向も、私の癖と重なり、そうするのはなぜという疑問にも、内心の誰かが応え、それを揶揄する声も聴きとる。そうなんだ。こういう自らのやりとりの中で、私の場合75年の経てきた人生を編みなおし、自分を正当化し、あるいは正当化しようとする自分を牽制している。そういう相反する己の内心のありようこそ、じつは人類史の相矛盾する(かつて以来積年の)実存在の証拠であるように実感しているのだ。

 若竹千佐子は私より一回り若い。でも彼女の皮膚感覚に蓄えられた、岩手の方言に体現される深層内奥の文化が、実はそれほど私のそれと異なっていない。それがまた、いっそう共感する心性を増幅している。岩手の方言とそれとはまるで逆を行くような西欧翻訳語や近代日本語の表出が醸し出すちぐはぐさ、違和感は、私自身の内奥のアンバランスさと見合っている。そこまで一緒なのかと思うほどであった。

 人間とはこういうものと、歳をとることとそれによって変容を自覚する私は近ごろ考えているが、宮下奈都など、女性の作家がそのような自己照射の自画像を描き出しているのは、時代の特徴が表出しているのだろうか。それとも女性に特有のセンスが、歳をとった老爺の私にも緩やかにかぶさってくるところがあるのだろうか。

 ひとつ、若竹千佐子と違うと感じたのは、「おらおらでひとりいぐも」と観念したのが、私にとっては、ずいぶん昔、30歳代の半ばのころであったと、記憶をたどる。男だからこそ、「ひとりいぐ」ことを強いられたのか、自ら選んだのか。人と人との関係に縛られず、時流に流されずに、私独りの道筋が見えてきて、その「場」だけが世の中の与えしものとしてそこに生きることを思い定めたように思う。誰かのために、誰かに託して、己を表出するというのは、固有存在としての人間の振る舞いとして当然のこと。だがその「ひとりいぐ」ことの「さびしさ」の受容感覚が違う。そのあたりに、ジェンダーではないが、社会関係がもたらす男女の性差があるのかもしれない。

 面白い作品だった。このブログの読者には、宮下奈都の作品と並んで、一読をお勧めする。

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