2018年6月25日月曜日

「時代が似ている」という感覚


  今年が明治維新から150年。私は今75歳。ということは、ちょうど明治維新から74年目に生まれて76年目に突入している。ほぼ半ばである。ところが大澤真幸という社会学者が、明治維新以降の時代を25年ごとに区切って、第一期、第二期、第三期とやると、敗戦後の25年毎の第一期、第二期、第三期と時代的相貌が似ていると指摘している。その戦前の第三期が、1918年頃にはじまる日本の全体主義の時代と重ねられると、近頃の立憲主義もへったくれもない行政府の暴走が思い浮かんで、「似たような時代」を歩いている気になる。とすると、敗戦後、私たち親の世代が愚かだったから戦争に突入したんだと感じてきたことにかぶせると、今度は、私たちの世代が愚かだったから、こんなになっちゃったんじゃないかと、わが息子たちの世代に謗られることになる。ふと、そう思った。となると、なにが「似たような時代と思わせる動き」にしていったのか、自省的にみてみようと思った。


 1918年は、第一次世界大戦が終わりかけたころ。日本は「一等国になった」と鼻高々になっていた時代だ。と同時に、日露戦争を経て(たくさんの犠牲を全国の農村の子弟から出し、増税にも耐えるしかなくて)、戦争が国民の戦争になったと感じた時代でもあった。つまり、「大衆化の時代」のはじまり期でもあった。国は一等国になった(と喧伝されて浮かれた)が、暮らし向きは必ずしも向上したわけではなく、産業社会の成長期にあって、資本家は肥え太り、他方、民衆は資本家社会の仕組みに呑みこまれて生きるほかなく(離村して)都市に移り住み、労働力を売って暮らすしか、道がなくなっていったのであった。貧富の差も広まり、「煩悶青年」と政治学者の中島岳志が名付ける鬱屈が溜まってきた時代。それが朝日平吾の安田善次郎暗殺や原敬暗殺や後の浜口雄幸テロ事件につながったという。

 戦後の第三期は、1985年頃からはじまるが、思い返せば、バブルの時代である。「ジャパン・アズ・ナンバー・ワン」じゃないが「一等国になった」と鼻高々になったのと相似している。そしてバブルの崩壊、中産階層の没落、企業の内部留保金の増大と非正規雇用の急増、貧富の差の拡大というよりは明確な亀裂が生じ社会的な分裂が始まって、「失われた時代」がすでに27年も続いてきた。なるほど、オウムのサリン事件のようなテロも起きている。国体護持とか統帥権問題とかも、ヘイトスピーチや「立憲主義」を無視するやり方に、似ている。ところが、大阪池田小学校の殺傷事件や秋葉原の無差別殺傷事件も、戦前の、攻撃するべき標的が明確にあるテロと異なり、どこに敵がいるのかわからない今の時代のテロだと言われると、「鬱屈」の成り立ちと行方を漠然と見ているだけでは済まなくなる。近頃流行りのTVじゃないが、「ボーっと生きてんじゃねえよ」とチコちゃんに叱られるかもしれない、と思った。 

 『愛国と信仰の構造――全体主義はよみがえるのか』(集英社新書、2016年)が、そこに踏み込んで面白い。政治学者の中島岳志と宗教学者の島薗進の対談で構成されているが、「似たような時代」の感触が、じつは「信仰心の根柢」に触れるかたちでとりだされ、それが「世論」を加速して右よりの社会的気風を醸成していると、明快である。私などが自らの「信仰心の傾き」とみている感触が、じつは全体主義への親和性が高いと腑分けされると、サッカーW杯のメディアの熱中やファンの街頭や現地ロシアでの熱狂ぶりもまた、「愛国」を加速し、全体主義への道をひた走るエネルギーになっているのではないかと、深読みしたくなる。そう自省的に読み取ると、刺激的な本であった。

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