2018年6月6日水曜日

シルクロードの旅(10)いやすごいなあ、人間というのは


 「この暑さは陽関などを思い出しますね」と、今回の旅をコーディネートしてくれたOさんからメールが来た。昨日(6/5)の「暑さ」を指している。彼の住む熊谷では30度を超えたろうか。今朝は雨音を聞いたように思って目を覚ました。窓を開けてみると、自転車置き場の屋根が濡れている。久々の雨。気温も、昨日とは打って変わって低い。いよいよ梅雨に入るのだろうか。


 中国第五日目(5/13)、日曜日。今日はすっかり観光気分。宿を出て西へ135km、ひた走る。敦煌は乾燥帯の中のオアシスである。アカシヤやヤナギの緑が街路を覆い、ぶどう畑が点在する。近在を流れる党河の水で灌漑がおこなわれている。水源は敦煌の南、祁連山脈とか。1982年というから、「黒い猫でも白い猫でもネズミをとる猫がいい」といった鄧小平の時代だ。綿やトウモロコシ小麦の栽培が主たるもの。人口は(近年増えて)20万人ほどだが、観光客が年間200万人訪れる。つまり、農業7割、観光業3割というところらしい。風力発電の小さな風車が並んでいたりする。ソーラー発電もおこなわれているらしいが、ソーラー表面に着く砂を払うのに、苦労している、と。

 車はほぼ直線の道路を走るが、それほどスピードを出さない。80km/hの制限。と言っても、日本のようにスピードガンで速度を図ることをしていない。空間平均速度とでも言おうか、ある地点からある地点までの間をどのくらいの時間で駆け抜けたかを測っているそうだ。だから、早く行っても、途中で休憩して時間をとれば、引っかからないというわけ。車の通りは少ないのに、運転手は速度をきちんと守っている。道路に並行して、沙漠のなかに30センチほどの高さの白い杭が50m置きくらいに並んで走る。ガスや石油のパイプラインだそうだ。これがチベットの方へとつながっているというから、中国という国のインフラを整えるのも容易ではない。135kmの途中から、白い杭ばかりではなく、1メートルほどの高さのフェンスが張られて走っている。これは何? 「自然生物保護区」と表示があったからそのためだろうが、保護するようなものが何かあるとは思えない。あとで聞くと、観光客が車で勝手に入り込んで荒らすのを防ぐためとか。なんとこのフェンスが、延々100kmほどもつづくのだから、中国人の考えるスケールは、私たちのものとは全く違う。

 ヤルタン地形公園に着く。やはりここも、入口に巨大な施設があり、料金を払いバスに乗って奥地へ向かう。道は舗装されているが、一歩脇へ寄ると瓦礫の沙漠だ。大きな岩が点在する。それが獅子に似ているとか仏像だとか記しているが、強い風と吹き付ける砂によって、何万年もかけて削り取られて残った岩峰が立ち並ぶ。誰かが「まるで砂の海だね」と口にしたのは、私が想いうかべていたことと同じであった。そう、砂の海。岩峰は島だ。沙漠は必ずしも平たんではなく、凸凹している。これは波だ。いちばん奥には、この岩峰が長く並列していた。「艦隊」と名づけていたから、中国の彼らも「海」とみていたのであろう。

 玉門関に着く。西域との戸口にあたる。ここを通過する交易商人たちに過酷な課税をしたために、西域からの商人たちが交通路を変え、のちに南の陽関の開設につながったとガイドは言う。陰陽の陽関というから、五行説にも合致したのだろう。玉門関は、ぽつんと沙漠に立つ要塞。こんなところがどうして「関門」になったのか不思議な気分だ。だがすぐ近くにある「漢代長城跡」をみたとき、腑に落ちる思いがした。要塞だけが孤立していたわけではないのだ。河倉城という食糧や兵器の倉庫は、玉門関よりは大きい楼閣もある。烽火台もあって、わずか3メートルほどの高さの「長城」だが、馬を駆使した匈奴たちにとっては、厄介な壁だったのだろう。壊れた楼閣の向こうに、川が流れているのであろう、緑が西から東へと続いている。ソロン河。かつてはこの川を使って物資を運んでいたというから、やはり海には舟だったね。それにしてもかつての水量はどこへいったのだろうか。

 車の表示する「外気温」は46度。走りはじめると37度に下がった。ガイドが「蜃気楼が見えた」という。こうした沙漠を歩いていたものにとっては、オアシスが浮かび上がって見えたのであろうか、それとも出立した都の面影がぽっかりと浮かんで、里心をくすぐったのであろうか。

 敦煌へ大きく転じて、南の陽関へ向かう。やはりここも入口を設け、それが繁栄を物語るような壮大なお寺を模している。扁額に「西通楼蘭」とあり、沙漠の中の古都とさまよえる湖ロプノールが思い浮かぶ。王維の大きな石像がある。「西の方陽関をいづれば故人なからん」と胸中の記憶が甦る。昔日の馬車のようなシャトルバスで遺跡へ向かう。巨大な烽火台の南西に、陽関の楼台が見える。ここは高台になっている。楼台に足を運ぶと、標高差で50mほどだろうか、下の方に沙漠が広がる。タクラマカン砂漠だ。どこで耳にしたか覚えていないが、南北500km、東西1000kmといったか。ここから西へ日本の面積の1.5倍という、大きな沙漠が延々と続く。その一部を越えて玄奘三蔵は天竺へ向かったのであったろうか。ガイドの話しだと、かつての陽関の集落は楼台から見下ろしている砂に埋もれているそうだ。東の方には北の方から流れてきた川が緑をなして、流れ下っている。あっ、(流れの向きは)逆か。オアシスってこういうものなんだ。楼台の手前にある見晴らし台には王維の漢詩が彫り込まれている。

 渭城朝雨潤輕塵
 客舎青青柳色新
 勧君更盡一杯酒
 西出陽關無故人

 一挙に私の想念は、60年前の高校時代に戻る。こういう漢詩を口ずさみ感じていたのは、このような乾燥帯の景観であったろうか。もっと違った潤いを持っていたのではなかったか。そう思って気づいた。王維も、この敦煌の陽関で詠んだわけではないのだ。長安か、せいぜい蘭州か。遥か東の都にいて、これから旅立つ友人との訣れを謳ったのであった。軽塵を潤したのは、せいぜい黄砂のただよう、ちょっとした埃っぽさであろう。この地にみるような砂嵐とは違う。と同時に、「君に勧むさらに一杯の酒」などと高校生のときに、酒の味もわからないのにロマンを込めていたのは、可笑しい。

 バスに戻ってバスが動くのを待っていたら、一人の婆さんが寄ってくる。ビニールの袋に入れた干しブドウをみせて、10元という。懐を探ると、1元札が4枚しかない。それを見せてごめんというと、別の少し小さい袋を出して、4元でいいという。干しブドウを買った。いくつか売り買いして身振り手振りで言葉を交わす。興に乗ってばあさんは座席に座っておしゃべりをする。ガイドが通訳することもあったが、なぜか言葉が通じるように思う。運転手が来てバスが出るときになって、婆さんはバスを降り、バイバイと声を出した。今考えてみると、婆さんというが、私たちより若かったのかもしれない。シルクロードの西域への出口に来て、私たちは勝手な想像を働かせてロマンを感じているけれども、この地に住む人たちや、この地を往来して暮らしを営んできた人たちは、この砂の海を恩恵と受け止めたろうかと、思う。ほんとうの海に囲まれて育った私たちは、海の幸を手に入れて恩恵を感じてきた。だがこの砂の海は、水を奪い、植物を奪い、獣すら息をひそめて暮らすように、ひたすら命を奪うばかりではないか。恩恵なんぞ、まったくないではないか。にもかかわらず、オアシスという小さな恩沢に浴してここを離れず、何千年と暮らしを紡いできた。いやすごいなあ、人間というのは、とあらためて感嘆したのであった。

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