2018年6月30日土曜日
見苦しく生きのびるか潔く散るか
6/25にサッカーW杯の熱狂が、一人一人に分かたれて拠り所のない人たちの「愛国」のはけ口になっているのではないか、と言った。今朝の「日本vsポーランド」戦への反応をみていると、もののみごとに応援している人の人柄が浮き彫りになっている。いや、話題にしているのは、攻撃をしないでパス回しに終始していた日本の「消極戦術」10分のことだ。苦虫を噛み潰したような顔をして気持ちの落ちつけ所を探り、「でもまあ、決勝リーグに行けたからねえ」と自分に言い聞かせるように応えている。
面白かったのは試合をみているどこかのお茶の間の画面。小学生が「攻めろよ」「えっ、攻めないの? 負けてんだよ」「勝てないよ」と画面の選手に声をかけている。ついには、一緒に観ている親の方を見て「負けてんのに、何してんだよ。これでいいの?」と声を上げる。
手放しで喜ぶ若者もいなかったわけではないが、「たとえ負けても攻撃しつづけてもらいたかったね」と残念がる人。「あんなにしてまで決勝リーグにいくなんてねえ」と結果だけを見ているわけじゃないと口にする人もいる。ま、それほどのファンではない方たちともいえるが、日本人の評判を落としてくれたと感じているようであった。そこには、自らの「愛国」の姿が投影されている。
西野監督はW杯のシステムをみて勝負をしている。ファンは一緒に熱狂したい。それなのに、ちょっとずれている。試合は「勝負に負けてゲームに勝つ」ことを目指している。「他力」という人もいたが、セネガルが同点にしたとの情報でも入れば、捨て身で試合に勝とうとして、ファンの期待と符節があったであろう。
「決勝リーグに行く資格ないよ」という発言を聞いて、私は76年余前の太平洋戦争の開戦を想い起した。開戦の知らせを聞いて「それまでのもやもやが吹き飛び、すっきりした」と多くの知識人が述懐している。負けるとわかっていても踏み切る潔さが、迷いや不安を払拭してくれたというわけだ。誰であったか、この(白黒決着をつけることへ重心を移す)気質は長州のもので、それが明治維新を苛烈にもし、成し遂げることへ導いたと評していたことがある。そう言えば、森友問題の冒頭に「もし私や私の妻が関係していたならば、総理もやめるし、国会議員もやめる」と啖呵を切ったのは、この気質の現れか。それがまた、無計画な無謀な戦争へと突入していく気質にもつながったと、評していたか。
ということは、「消極戦術は潔くない」という気質は、案外古い世代のものなのかもしれない。新聞の見出しに「侍ジャパンらしくない」というのを見て、なおその感を強く持つ。もう(目先の状況に決着をつける潔さという)サムライは卒業して、システムを生きている見苦しさに耐えよという時代に入ったということなのか。
潔いサムライよりは這いつくばってでも利得を上げるアキンドの魂に乗り換えよと、西野監督は示したのかもしれない。まあ、アキンドの魂も、世界的な様相をみると、極まってきているようにみえますがね。
登録:
コメントの投稿 (Atom)
0 件のコメント:
コメントを投稿