2018年6月7日木曜日

シルクロードの旅(12)石窟を彫る荘厳さと儚さ


 黄河三峡ダムの上流、柄霊寺はスポット観光地だ。ウリは石窟。莫高窟をみていたから、またかという気分があった。だが違った。石窟が開かれたのは北周の、似たような時代であるが、莫高窟のように保護されていない。千五百年もの間、風雨にさらされてきている。にもかかわらず、残されている仏像の肌合いの滑らかさ、表情の柔らかさ、姿態のたおやかさは、ちょっと息をのむような気配を湛えていた。みることができるものは(高いところのものは足場もなく)限られていたが、風化するままに放置されてきたことが、いっそう、人の営みの(長年をかけて石を彫るという)厳かさと、にもかかわらず(風化に耐ええず)崩れ落ち朽ち果てるという儚さを湛えていて、見ているものの気持ちをすうっと引き締める。


 立地もそうであった。周囲の岩峰は鋭く立ち上がり、削り取られて屹立する。奥へつづく山は高く深い緑を湛え、黄河の奥地に踏み込んだ気配に満ちている。このダムができるとき、水底に沈む村に住んでいた人たち6万人ほどが立ち退いたそうだが、多くは両岸の高台を切り開いてつくられた平地に移り住み、そこへは迂回して道路も設けられている。灌漑は、たぶん水をくみ上げて施されているのであろう。ここもまた、奥地とは言え、黄河の恵みを受けた豊かな村落だったと思われる。柄霊寺は、そういった人たちに見守られてつづいてきた寺なのであろう。

 21年前、長江三峡ダムが閉鎖になる直前にその上流へ行き、孔子廟など、水没すると謂われる史跡を観てきたことがあった。そのときは、それほどの感懐を持たなかった。時間の蓄積を感じなかったどころか、描かれた絵にしても、何だか子どものころの紙芝居の絵を見るような幼さを感じ、感心しなかった。だが今回は、莫高窟以上に深いところで私の内心の何かに共振するものを感じた。それが何かはわからない。ダムの奥深くにあった、この寺の立地とそれを取り巻く景観が、影響していたのかもしれない。一番奥に位置する柄霊寺には涅槃像が移されて保存されていた。復元補修を受けて穏やかに見える顔貌は、心地よさそうに人生を振り返っているような面持ちをしていた。

 こうして、またやってきた小船で乗船地まで戻り、車で蘭州に引き返した。

 第八日目(5/16)水曜日、旅の最終日。蘭州空港に7時ころ着くように向かう。ホテルの朝食はサンドイッチなどにしてくれていた。丁さんも長い旅から解放されるとあって、いそいそと世話を焼く。空港についてチケットを購入し、機に預ける荷物を届けると彼の仕事は終わる。ちょっとトイレへと私が行っている間に、彼は帰ってしまった。挨拶もしないまま。航空機は来たときより少し大きい機体であった。北京に着く。乗り換え時間は十分ある。荷物の受け取りもいらない。蘭州空港で残りの元を全部使い果たそうと思っていたが、ワインをみても敦煌のものなど置いていない。みなフランスやイタリアなど、洋物ばかり。中国も昔の日本と同じで、いまはまだ海外物が幅を利かせる風潮にあるのだね。というわけで、買い物もせず、もっていった文庫本を2冊読み終わり、北京からの機中の人になった。時間厳守の中華航空であったことは、来たときと同じだ。どこをどう通ったかわからない。ワインとビールを飲んでいい気分でうとうとしていると「着陸します」と放送が入る。夕刻7時前、無事帰着。熊谷の皆さんはリムジンを使うというので、私は独りモノレールに乗る。さかさかと帰り着くことができた。やはり乾燥帯よりは、日本の湿っぽさの方が身体に合っているように感じた。

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