2018年6月4日月曜日
シルクロードの旅(8)土曜日の賑わい
5月12日(土)、新幹線に乗る時刻は11時35分とあって、午前中ゆっくりと張棭市の「名所」を訪ねた。土曜日とあって街には大勢の人が出ている。大仏寺の前の大きな広場はコンクリートが敷き詰められ、一隅で五十人ほどの人たちが生前と並んで体操をしている。ヒップホップダンスのような動きだが、先頭の人が指導者という風情でもない。その右側には十数人の人たちが太極拳をしている。こちらは横に一人だけ飛び出ている男性が先達のような風情。なんとも健康的な人々の暮らしだ。
大仏寺の門前では、広場のコンクリートの上に大きな筆で文字を書いている人がいる。ははあ、これはいいねえ。水で濡れた筆先が滑らかなコンクリートに見合って、なかなかの達者だとわかる。私に何か言って筆をもてというから、草書で私の苗字を書いた。すぐに乾くから、下手でも何でも恥ずかしくない。このお寺からの帰りには、筆を持った人がもっとっくなっていた。一人旅の女性が「日中友好」と書いてウケている。「熱烈歓迎日本朋友 来張旅遊・・」と応じる。
生憎私は、「地球の歩き方」も何もみないまんまに来ているから知らなかったが、大仏寺は「名所」らしく、同じ宿に泊まっていた日本人客も「自由時間」と言ってきている。私たちのガイドが日本語で案内しているのにくっ付いて来て、見て回る。わがガイドは仏像や仏教などにやたら詳しい。内部の「博物館」入口には、まず張騫の馬上像が居座っている。昔の世界史の記憶が少し蘇る。玄奘三蔵の『大唐西域記』の第一巻の写本が、展示されている。象に乗った竹林僧の図や羅漢図は姿と言い表情と言い、人の内面を描き出す見事さに溢れていて、見ていて飽きない。「絲周之路上的張棭」というイラストがあり、シルクロードが大きくは三本の道であったことが描かれている。あるいは「佛教東傳路上的張棭」というイラスト図もあって、今のパキスタンからアフガニスタン西北にあった大月氏を経て、タクラマカン砂漠に位置した亀茲国や吐魯番を経由して敦煌に伝わってくる経路が示される。そうか、シルクロードの旅などと思っていたが、今日これから行く敦煌がいわばその入口であって、その先の広大なタクラマカン砂漠から西が、西域、つまりシルクロードなのだと思い返す。
また移動し、ここも大きな広場の奥にある九層の木塔に立ち寄る。万寿寺というお寺があったそうだ。文化大革命のとき壊され、人々の集会所として広場に作り替えられたという。それだけで十分すぎる広さがあったから木塔は残されたのであろうか。今はこの塔が北周の時代に建てられた由来を記した石碑がある。傍らに「万寿寺」と大書し「甘粛省級文物保護単位 甘粛省人民政府 一九九六年四月十九日公布 甘粛省文物局立」と小さく付け加えた石碑が置かれている。何だか、文革のときの所業を(申し訳ないね)と謝っているような感触があった。広場は親子連れや若い人たちであふれている。中国では土日は原則休日だそうだ。
私たちは九層の木塔に登った。梯子と言っていいような階段を一つひとつ上る。木の格子ごしに広場がだんだんと小さくなる。遠方も見渡せる。陽ざしが強く、張棭の街が明るい。街の中心部にある城郭跡で、私たちを送迎するバスを待ち合わせる。時間があったので、新幹線で食べるパンを買おうと、近所のパン屋による。なかなか洒落た店。おいしそうなパンがずらりとおかれている。お客も入っている。この町の人たちも、ちょうど私たちが1980年のころに感じていたのと同じような「暮らしの気分」を味わっているのだろうか。私は(ひょっとすると人類史上一番の高度な消費生活)を(大衆として)体験しているのではないかと、思っていたのだ。今振り返ると、その通りだった。「戦後35年」にしてこんな暮らしが実現するとは、子どもの頃思いもしなかったなあと、わが径庭と重ねて時空を超える。
敦煌方面へ向かう新幹線は、西へ650km走る。3時間ほど。来たときと同じじゃないかと思うほど、おしゃれな服装の車掌が、下車時刻を書き込み、時間になると報せに来る。「新疆旺源生物科技集団」と車体の横腹に書かれた文字が、ちょっと違和感。なんで「生物」なんだ? 通過する風景は、線路に沿って南北に山並みが東西に流れ、そこまでの平地には水路が開かれ、灌漑が施されている。もうここは、黄河の流域ではない。酒泉站、嘉谷関南站、玉門站と、何だか駅の名前が聞いた風な響きを持ち始める。景観は明らかに乾燥帯なのだが、水は豊富という感じ。小麦の畑や綿畑や野菜を育てている。3時間後に降りたのは柳園南站。土漠のなかにポツンとつくられた駅。何もない新幹線は新疆へ向かうから、敦煌に一番近いこの地に駅を設えたようだ。街へ向かう車に乗れと、呼び込みが大声をあげている。彼らは駅前広場のあるところから中に入ってはいけないとされているらしい。
そこから135km走って敦煌に入った。走る道路の脇にまた道路をつくっている。橋をかけている。片側一車線の道路を一本つくり、もう一本並行してつくって、片側二車線にするらしい。何しろまっすぐに走って何の障りもないわけだが、きちんと盛り土をし、盛土の脇を土を叩き、あるいはコンクリートかセメントで固めている。でも、こんなところを玄奘三蔵は歩いたのか。昔読んだ本では、昼間休んで夜歩いたように書いてあったか。西域へ「脱藩する」ような秘密の旅であったからなのか、日中の暑さを避けるためであったのか忘れてしまったが、この暑さに日中歩くのは適わないと思った。後に見かけたが、玄奘三蔵の足跡をたどるウォーキングがあった。一週間ほどをかけ、ポイントごとに幕営休憩地を設け、ひたすら歩く、文字通り「巡礼の道」だ。結構人気があるらしく、私たちが帰る日の、私たちがとまった宿には「千人参加」の大会があるというので、高校生のような若い人たちが押し寄せてきて、にぎやかであった。シルクロードはこんなふうに人々に受け容れられているようだ。
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