2018年6月11日月曜日

人が存在する前の「世界」


 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』(人文書院、2016年)を読んでいる。きちんと論理を追うとむつかしいが、大雑把に何を問題にしていると読むと、面白い「論題」を取り上げていることが分かる。昨日、『おらおらでひとりいぐも』の主人公が、46億年の地球の誕生以来の「世界」に自分を位置づけて考えていることを、私と同じだと記したが、その、人の意識が誕生する前、言葉が生まれる前の「世界」は存在したのかと問うている。


 じつはそれを「世界」と呼ぶのは適切ではない。「世界」というのは、その世界を見ている「じぶん」を位置づけてはじめて誕生するからだ。メイヤスーはだから「祖先以前」と呼ぶ。 『おらおらでひとりいぐも』の主人公が「祖先以前」というのを生命の誕生以前とみてるかどうかは記されていないが、類猿人の誕生以前と考えても、800万年ほどか。46億年前に地球が誕生したと私たちの「知識」は語る。とすると、45億9200万年ほどのあいだ、その地球の実在を誰がどうやって認知したのか。いやもう少し現実(認識)的に言うと、地球の誕生が地球科学世界で認識されるようになってまだ200年とたっていない。とすると、200年前に46億年前が誕生したことになる。私たちは、そのように考えているだろうか。

 「わかる」ということがものごとの誕生だとすると、人類史的な「わかる」と私が「わかる」とどう区別するのか。「後方投射」と哲学者は言うけれども、「わかった」時点で、一挙に時代をさかのぼる。「実在する」ってどういうこと(?)という疑問も、その瞬間に生まれる。時間が逆行しないで未来へ向かって流れているというのは、単なる一つの「時間観念」であって、「後方投射」して生まれた時間は、積み重なっている。私たちの心裡では、時間も歴史も、私たちの人生も、「積み重なる時間系列」の方が実感に近い。つまり、いま後期高齢者の私は、同時にいま子ども時代を生き青年期を生き壮年期を生きて子育てをし子離れをして、いまに至っていると感じている。私の外から見た(物理的な)時間の流れは一方向であるけれども、その時間の感知は堆積的である。

 そんなことを考えていると、では「実在」って何よ。「外から見た物理的な時間の流れ」っていうときの、「物理的」って、誰がどこに足場を置いて、いつ見ているのよと、次々と疑問がつづいてくる。カントではないが「ものそれ自体を認識することはできない」とも思ってきた。ふと立ち止まって湧出する疑問をみてみると、「感じる」ということを抜きにしないと「世界」はいつまでも私の心裡にとどまり、そこから外へ一歩も踏み出せない。でも私たちは、「外」があることを感知している。私が認識する以前に「外部」が存在すると感じている。その「外部」は茫洋として「わからない世界」である。つまり「知らないということを知っている」とでも言おうか。

 そもそも、「祖先以前」というとき、私は「祖先の実在」をどう認知しているのか。ただ単に、今私があるのは「祖先」から命をつないできた結果、つまり末裔だと思っている。命というのがそのようにしてしか受け継がれていかないと知っているから、そう思っているにすぎないのだが。

 メイヤスーは「45億6千万年前に何が起こったのか、地球の形成は起こったのか、イエスかノーか」と問いかけて、「祖先以前的言明は、その文字通りの意味がその究極の意味であるという条件においてのみ意味を持つ」とややこしい言い方をしている。つまり、あれがどこからみて「祖先以前」的な実在を言明しているのかと問うのは、(その言明の)「意味」を問うているのだ、と。意味などない。物理的(科学的)言明の指し示す以外の何の意味もない。「人間なき物質による数々の出来事は、科学がそれを語るようなしかたで実際に起こっていたのだろうと……みとめること」とし、それが科学的ということだと言っている。私自身のものごとの「認知の仕方」はメイヤスーのいうとおりである。私がものごとを知らないと「わかるればわかるほど」に、認識していない(私にとっては茫洋とした)「世界」が確固として実在していると、思い当たる。

 こうも言えようか。「わたし」が考える限り、私にとっての「意味」を抜きにはできない。だが、「じんるい」にとっては、「わたしにとっての意味」などどうでもいいことだ。そういう意味では「じんるい」は「わたし」とは別の次元で実在し、「わたしにとっての意味」をほんのちっぽけなこととして呑みこんで、その「世界」を展開しつづける。アフリカの飢えた子どもたち、戦乱に逃げることもできないでただ巻き込まれる中東の人々、その人たちはいまの「わたし」にどれほどの実在感を持っているか。いまの「わたし」は、どれほどの実在を感じているか。まさに「外」の「かんけいのない世界」と受け止めているではないか。まして「祖先以前」的なことは、単なる興味関心から、未知のものへの好奇心から目に留めることはあっても、それ以上の「意味」をもっているとは思ってもいない。

 メイヤスーは次のようにつづける(番号は引用者が勝手につけた)。

(1)原化石の問題(「祖先以前」的実在)とは、生命を持った有機体の誕生についての経験的な問題ではなく、贈与の到来に関する存在論的な問題だからである。
(2)……問題は、意識に先立って存在すると考えられる時空間のなかで、科学が特別な困難なしに、意識の到来とその贈与の時空間的な形式の到来をどのように考えことができるか、ということを理解することである。
(3)それによって科学は、贈与なき状態から贈与がある状態への移行が実際にそこで起こった時間を思考しているのだと理解されるのである。
(4)……定義上、贈与に先立っていて贈与の出現を可能にした、贈与へと還元されることのできない時間である。……問題となるのは、〈科学の時間〉であって、意識の時間ではない。

 こうしてメイヤスーは、「わたし」がこだわる観念的な次元をクリアして、唯物的な半面の世界を描き出している。これは「わたし」の、知と無知との狭間を直撃する「論題」であるとともに、私たちの「世界」の描き方に対する大きな問題提起である。〈科学の時間〉を知らなくて「人間」の時間を見て取ることはできないが、〈科学の時間〉ばかりに取り込まれると、「人間を完璧に見失う」といえそうだ。

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