2018年6月6日水曜日

シルクロードの旅(11)2000年の時空の旅


 陽関の入口に「ポプラ」の木に関する看板が目に付いた。「胡楊(populus diversifolia)」 と表示し、「胡」の字から、西域から伝わった植物と知れる。姿形は多変化し「千奇百怪」、「国家一級重点保護植物」と記している。そうなんだ。また入口の城壁の前には、古代の戦闘に使われたであろう「投石機」や「城壁登攀機」「城門破壊機」など映像の三国志でみかけた「兵器」の数々の模造品がおいてある。現実と故実がごちゃ混ぜになって、私の脳裏を襲う。


 この日の夕食はわりとさっぱりしたスープ、うどんにピーマンの炒め物や鞘豆の煮もの、茄子と芋の煮つけなどを掛け、混ぜ合わせて食べる。中国の人たちの食べ物は、雑炊というか、雑煮というか、何でもかでもごちゃ混ぜにして食べるのが、風流らしい。食材の一つひとつに目を凝らして、素材の味などというのは、細かいというか、ちっちゃなセンスよと、謂われているようであった。

 そうそう、夕食の前にホテルのご近所のスーパーに寄った。スーパーは文字通り「超市」。山椒の実もあったが、敦煌のワインがおいてあった。550元だから、1100円くらい。二種類あったので、カベルネソービニオンを使ったと表示してあるのを一本、土産に買った。帰国してカミサンとグラスを傾けた。日本の甲州ワインと似たような味わい。もちろん(値段に比して)悪くはない(甲州ワインの方が安いが)。この夜も夜市に行った。方形のガラスの箱に砂絵が描いてあり、ひっくり返してもまた別の砂絵が現れるというびっくり箱があった。面白い。でも、ただそれだけ。昨日同様に、店先で彫物をしている。鼓をトントンと叩きドラミングを愉しみながら、それを売っている。昨日スカーフを買った店の若旦那が、私の姿を見て、手を上げる。カミサンが書道教師というIさんが、雅号の印章を彫ってもらった。ホテルの部屋に莫高窟の絵を模写した本が置いてある。天女の柔らかな表情や姿態は正倉院の(西域伝の)それよりも、さらに細やかで現代的だ。

 第六日目(5/14)莫高窟へ行く。敦煌市から南東、さほど遠くない。大きな施設が立ち並び、まずは15分ほどの映像を二カ所で見せる。ひとつは匈奴との戦いによってつくられてきた街・敦煌の物語、謂うまでもなく漢の時代からの漢民族の視線だ。もうひとつは、3D画像の莫高窟の物語。沙漠からたどり着いた僧侶がこの地に居を定め、像を彫り始め、それが千年以上もつづいた結果もたらされたのが、これだと。この二つの物語が、今の中国の誇らしさと相まっている。中央の権力による外敵との戦いを潜り抜けた先に、いまこの栄光があると、習近平と重ね合わせて私は理解する。でも西域の民やチベットの民は、どう受け止めるであろうか。入口の画像と展示物は、わんさと押し寄せている観光客、中国人が圧倒的に多いが、日本人も西洋人もいる。私も含め旅人は、覇権と服従の歴史感覚からは、とっくに離れてしまっている。

 バスに乗り、10km近く走って標高100mほどの山裾に展開する莫高窟に着く。わがガイドは、混みあう前にどう経めぐったらいいかを算段して、まず九層楼をみて来いという。その間に彼は、莫高窟の日本語ガイドを交渉している。九層楼は、何年かかけてつくられて今の姿になったそうだ。なかには大仏がある。かつては上の方から顔をのぞかせていたそうだ。今はすっかり隠れている。日本語ガイドは姜さん。達者な日本語を駆使して、莫高窟の八つを案内してくれる。わがガイドによると、日本人の好みに合わせて、ポイントを紹介しているらしい。じっさい、彼女がカギを持ち、窟の扉を開けて見せ、終わると鍵を占めて次へ行くというようにしていた。後からたくさんの見学者が押し寄せる。要領よく彼らの間を抜け、周り込んで窟に入り、説明をして次へ向かう。2時間ほどがあっという間に経ってしまう。敦煌研究院というのがある。いまは敦煌学というのもあるそうだ。「敦煌壁画百年対比」という大きな掲示板があった。保護しなくては人類の文化的遺産が失われると力説している。その掲示板がもう古びてきているのが、気になった。

 莫高窟を出て、土産物などを売っている店に案内してくれる。そこで見た絵が、昨夜ホテルの本で見たものと重なる。「私が描いた」という作家が、説明に来る。値札もついている。これは、というのをみると一枚が一万元、二十万円以上。なかには百万円以上もするのがずらりと並ぶ。とても私たちの手が出る代物ではない。竹下首相の日本政府が出資して作った莫高窟の記念館は立派なまんま。なかには窟のレプリカがつくられ、塑像も壁画もそっくりにしつらえられている。でも入館している人は少ない。維持費などはどうしているのだろうか。持て余しているのではなかろうかと思った。

 この日は夜の寝台列車に乗る。20時発だから、ゆっくりと過ごせる。遅いお昼をとってホテルに戻り、またスーパーへ買い物に行く。なんとなく夕食を食べる元気もなく、パンを買ってきてもらう。敦煌駅で電車を待つ。柳園西站と違った路線で、敦煌発蘭州行き。ここにも新幹線「和楷」号が走っている。軌道の広さが同じなのだね。私たちが乗るのは、始発に乗り終点までの寝台車。中国の人たちが列を作る。この人たちも日本人同様に行列が好きなのか。私たちは指定席だから、行列には並ばない。ただ荷物が大きいから、階段を上るのは難儀する、と考えている。私は大きなリュック一つだから気楽だ。四人ひとつのコンパートメント。一人余るので、そちらに私が入る。ガイドはまた別の車両に行った。彼は寝台じゃないのかもしれない。私のコンパートメントは、夫婦者一組と家族連れのご亭主ひとり。私は下の段であった。車掌が来て、チケットと交換に座席札を渡す。翌朝チケットと交換に座席札をとりに来て、そろそろ下車ですよと起こしてくれた。昼間の疲れからか、私はすっかり熟睡した。列車の揺れも、線路のガタンゴトンという音もまったく気にならなかったのだが、上の段に寝たSさんは音が気になって寝られなかったと、翌朝愚痴を言っていた。7時過ぎに到着。蘭州站は大きい。巨大な都市の中心駅という風情。

 私たちは迎えの車に乗りこみ、まずは朝食へ。ファストフード店というか、麺とトッピングする品々をあれこれと選んでひとつずつ清算し、じぶんでテーブルへもっていって食するという格好。日本円にすると150円か200円。麺の量が多い。チャーシューたっぷりとラー油が入った麺つゆ。おいしい。

 蘭州を流れる黄河の流れに逆らって北へ走る。途中で、中山橋に立ち寄る。車を止めた背中の方、北を見上げると古い楼閣が山の斜面に沿って層を重ねる。旧市街。100mほどの橋を渡ると新市街。これが中山橋。黄河に最初に掛けられた橋だそうだ。ガイドの丁さんはこの、北側から南側の学校へ橋を渡って通っていたそうだ。南のやつらが北を馬鹿にして差別していたと、悔しい思いを想い起して話す。私が見ると、高層ビルの林立する新市街よりは、山辺に緑に囲まれて起ちあがる旧市街の方がずうっと美しく見える。黄河の水がたっぷりと、茶黄色に濁ってけっこう早く流れている。南側には「黄河単一橋」の石碑がある。それほどに記念すべき橋なんだ。橋の上流には両岸を結んで山の中腹から渡されたロープウェイが行き来している。荷物を運んでいるのだろうか。

 車はさらに北へ向かう。峠を越え、いつしか黄河とも離れる。と、大きなダムに到着。これは黄河につくられた、黄河三峡ダム。長江三峡ダムより早く造られたそうだ。大きな船もあれば、十人ほどが乗れる小舟が何艘も停泊している。丁さんがチケットを購入して小さい船に乗り込む。11時過ぎ。船は快速船。8人を乗せて河の流れを回り込むと、一挙に巨大な川幅が広がる。両岸が3キロほどもあろうか。湖上にとめた船上レストランもある。上流へ足を速める。また一つ川の流れを回り込むと山襞が赤っぽく、かつ峨峨たる様相を見せ始める。どうしてあんな風に切れ落ちたのだろうと、断層の見事に水平直線の亀裂が目に止まる。こうして走ること1時間、河幅がいくぶん迫り、岸辺の山が屹立するようになったところに、船泊がある。下船して、まず食事にする。もう12時を過ぎている。こうして私たちがついたところが、柄雲寺であった。(つづく)

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