2018年6月18日月曜日
古文書の人相書き
今月の「ささらほうさら」は古文書の勉強であった。講師はmsokさん。彼自身、やむをえざる理由によって古文書を五年ほど勉強してきたという。それを少しばかり開陳しようという試み。やむを得ざる理由と、それを引き受ける成り行きというのが面白い。msokさんはこう記す。
《……ある事情から古文書を勉強する羽目になりました。破目になったと受け身的に言いましたが、慥かに切掛けはそうだったにしても勉強する意志は自発的であった。このことは予め申し開きしておきます。》
なんでこんな「申し開き」が必要なのだろう。これはたぶんmsokさんの気概が関係しているといえそうです。「ただ受身的」は、沽券にかかわるのだろうか。私は、そんなことはどっちでもいいじゃないかと思う。「成り行き」で始めたことが面白くなり、それまでの「じぶんの世界」と違う味わいに身を置いているというのは、人が変わるものだという見立てをすれば、動機などどちらでもよくなるのではないか。自発的であったか受け身的であったかにこだわるのは、あまりにも「自発的」という「個の意志」に執着しすぎなのではないかと思った。「個の意志」は環境の中で育まれ、育てられ、あるいは逆に押しつぶされていくもの。「わたし」は器に過ぎないのです。
その古文書の勉強をmsokさんは
(1)「何も大仰なことはなく唯読むだけのこと……いわゆる解読です……その単純な解読がまさに解読と称さなければならない程に難渋極まりない……なにしろ、漢字と仮名からなる文章なのに全文これ全て崩し字で、しかも所謂変体仮名や独特の言い回しが法則性もなく使われるは、第一全く句読点がなく段落もなく唯々続けて書いてあるはで、まずその風に慣れるまで随分と手古摺らされます。」
(2)「加之古文書は草紙、書物、瓦版等の僅かばかりな印刷本を別にすれば、もう殆どがその時だけの「手書き」ですから、同じ文面でも人により字体の癖からはじまって寺の崩し方、漢字や仮名の遣い方、書肆の表現の仕方等々、区々で、十人居れば十通りの書き方があると言ってもよいくらいです」
と悪戦苦闘を偲ばれます(番号を打ったのは引用者)。
現在の私たちは、「いろは」にせよ、「イロハ」にせよ、あるいは漢字にせよ、ほぼ活字のそれを共有しています。手書きはどちらかというと上手な人の「お手並み」であって、行書ならともかく、草書となると、ふ~んと感心するくらいで済ませています。ところが変体仮名が入ると、「い」なのか「イ」なのか「以」「意」「移」「伊」「夷」「易」「巳」なのかわからない。表記の漢字は全て変体仮名の「い」だというから、まさに「解読」。ほとんど外国語を読んでいるような気分になると(1)は伝えているようである。「法則性もなく使われる」というのは、文法から外国語を学んだ私たちとしては、文字通り「解読に難渋」するわけです。「習うより慣れろ」なのかもしれません。
加えて「活字のそれ」になれているというのは、じつは「人間認識が共通している」ということかもしれません。「共通している」と言えば聞こえはいいのですが、別様に言えば「人間認識が一様で平板」ということです。つまり、「活字」的認識は目の付け所からして、人がさまざまに違うということを「さまざまに違う」と認識はするけれども、一人一人の一つひとつに事象が違うだけでなく、ときとところにおいてもまた「その人」が違うことを、おおよそのところで一括して認知しているにすぎないと、(2)は示しているようです。「区々(まちまち)です」という漢字表現自体が、いまは読めなくなっていますよね。
それを「では味わっていただきませう」とまず見せたのが、「人相書」。「元主人突き殺し逃去る喜兵衛人相書き」であった。「宝暦十一年御用留」とある「須賀家文書所収」のもの。1761年のものだそうだ。つまり、これが村々に回状として回され、まわってきた回状を名主かその家のものが筆写し、次へ回し、須賀家で「留め」たものが残っていたようだ。つまり、筆写する 名主や百姓代やの「手並み」がそれぞれに違うから、たとえば上記(1)のコメントに載せた変体仮名7種のどれを「慣い」として使ったかわからない。ましてそれをどう崩していたかもわからない。まさに人によるのだ。このような人の見方を、私たちは忘れている。
「人相書」字体が、TVドラマの時代劇では似顔絵を描いてあったりするが、「回状」となると「似顔絵」は伝わらない。一、生国大坂天満筋……、一、せひ中せひふとり肉、一、鼻筋通り鼻の先赤色白きれい成生付、一、髩は中髩月代並髪とも薄き方、一、眼並より大き成方眉毛厚キ方、などなど9項目を記している。はたしてこれで、捕縛につながったのであろうかと思わないでもないが、よそ者がそれとして村(共同体)を通過するのであってみれば、詮議の眼は厳しかったかもしれない。「似顔絵」がいかに情報を豊かにもっているか。私たちの視覚による情報の質の違いを思うが、同時それが、防犯カメラによって「自動判定」されるようになると、もう私たち自身の目からさえ、人の判別についての感覚が失われていくような気がしてならない。
古文書の解読はもっといろいろなことを教えているが、「人相書」が指し示す時代の大きな落差は、じつは人間の経てきた落差を見事に示していると思えましたね。
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