2019年8月12日月曜日
山の日
今日が山の日だということを、夕方ニュースを見るまで気づかなかった。山の会の主宰者として恥ずかしいって? ないない、そんなことはありません。山の日は、ふだん山に行かない人とか、山は遠くにありて眺めるものという人たちのために設けられたもの。ま、一年に一度のこの日くらいは、山を空けて差し上げるってのが、山人にはふさわしい態度ってことよ。
私の主宰する山の会も、もう七年になる。最初の4年は月一回の、私が企画する山行であった。後の3年は会員企画の山と私企画の山の二本立て、つまり月2回の山行になった。そのため山の会としての山行回数は、ぐんと増えた。ことに今年の3月から「トレーニング山行」として、私がそれまで単独行で行っていた山に付き合ってくれる方が出てきたから、月3回ないし4回の山行となり、山へ行かない週が少ないほどになった。いまちょっと概算してみると、次のようになる。
山の会の山行回数は、2012年から120回。これは泊まりも1回と数えているから、山に入っていた日数は、もっと増える。私自身の単独山行や家族を連れて行った山行などを含めて数えてみたら、7年間で270回、日数は505日に及ぶ。おおよそ2500日の間に約500日の入山だから、5日に一回の計算になる。いやあ、よく行ったものだ。
それでも山人になったかというと、そうではない。山好きの人に過ぎない。病膏肓に入るというように、山に入りびたりではない。毎回、陣地から出撃している。つまり山行は、ハレの振る舞い。ケは街の暮らしにある。だから「山の日」を設ける人たちとセンスはあまり違わないのかもしれない。
簡略にいうと山は私の「ふるさと」である。遠くにありて思うものという程度に、すでに日常はそこから離陸している。俗世を引退してからはとくに、そこに身を浸すことを慈しむ気持ちが昂じている。そのうち足を運ぶのが面倒に思えたり、いやになることもあろうと思ってきた。そうなったら、山行をやめるしかないと覚悟してきたのに、いまだにそういう気持ちにならない。だから相変わらず、週1以上のペースで、山へ行っている。
次はどこへ行くか。そう考えてルートを策定しているときが、一番シアワセだ。歩きながら、このルートはこんなに面白いと思う発見が、薄れていくようになったら、別の要素を盛り込んで、歩き方のバリエーションを探ることもできる。でもいまさら、鳥だ花だとのめり込んで新境地を開くようなことは望めない。でも、次を生きるエネルギーにはなっている。
いつか、やめる日が来ると思う。それがどういう気分に襲われてそうなるのかはわからない。ひょっとすると、気分がどうにかなってではなく、私が山と一体化するときかもしれない。いわゆる「骨を埋める」というわけだ。ま、そのときは潔く、これまでの数々の幸運に感謝して、静かに山に眠ることにしよう。
まま、これは自分の終末と同じで、自分で決めるわけにはいかない。成るようになる、成るようにしかならない、ケセラセラにお任せ、だ。
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