2019年8月12日月曜日
わが裡なるナショナリズム
大澤真幸が「想像の共同体」を梃子にまとめたナショナリズムの五点の特徴をもとに話をすすめていきたい。
① 「知らない者同士」が国民である。
② ネーションは「限られたもの」である。
③ 共同体を構成するメンバーの平等性
④ ネーションは「客観的には新しいのに主観的には古い」というねじれをもつ
⑤ ネーションは基本的には文化的な共同体だが、政治的に自立した共同体でありたいと強い欲求を持つ。
①が「共同性」を感じさせるところに「俗語/口語」の共通性が介在する。同じ言葉を話すというのは、それ自体が「共同的」をもった社会の産物である。ことばというのは、個々人の意思によって紡ぎだされるものではなく、共同性のなかから受け継がれてきた「共有」のものと、身体が承知している。ベネディクト・アンダーソンは、その「ことば」が(近代以前には、氏族的あるいは部族的に)異なっていたものをプリントキャピタリズムや教育によって共通化していく過程で作りだされていった「想像の共同体」の創出と軌を一にしているとみている。ことばの共通性が「せかい」を広げていくというのである。
つまり共通語の誕生とネーションの誕生とは(成立経緯をたどれば)同一歩調であったのだが、身の体感としては(子どもが言葉を身に着けていく過程を勘案すると)言葉が先行していると思える。これが、③の「正統性/正当性」を求める由緒・由来へと向かう内的ベクトルの原動力となっている。いつも私たちは、時間経緯を振り返ってわが身の輪郭を描くしかないのだ。この「正統性/正当性」への衝動が転じて(将来的な)普遍への願望に向かい、「知らない者同士」の包摂と拡張へと結びつく。「同じ言葉を話す日本人」が、次元を変えて「同じ地域に暮らす大東亜共栄圏」へと転轍されていく途次には、侵略的な欧米という対抗軸が想定されており、それはすなわち②の「限られたもの」をベースにして、①も成立していることを明かしている。
①の要素をもつ(ことに日本という)ネーションの「想像の共同性」は、わが身に問うてみれば、「ことば」だけに依拠するものではない。体つきや動作、振る舞いなど、心の習慣も含めて、暮らしにおける文化的に継承されてきたもの全てが含まれる。島国であったということも、等閑視できない。海によって隔てられた空間(と時間)は、それ自体で「共同性」とまとめることができる身体感覚を醸成しているからだ。内と外が感覚的に明白だった。柳田國男の民俗学が解き明かしていくケとハレ、内と外、里人と山人という対比や折口信夫のマレウド(来訪者)は、②の限定を明かすとともに①の共同性をより強固にし、同時に、③の「平等性」を再生する動機をなしたといえる。これらの「想像の共同性」は固定的なものではなく、つねに(日々の営みを通じて)再生産される必要のあることであった。その日々の営みが、村落の意思決定や伝達の集団の形であり、家族における序列秩序であり、相互の恩恵と慈愛を育む文化と暮らしの業であった。
近代以前の社会においては、「おくに」は藩であった。庶民にとっては「おらが村」が自らの所属を明かすものであったこともあって、ミヤモト村のタケゾウが名を成して後に宮本武蔵を名乗るように、自身の由緒由来は「共同性」とともにあった。だから室町期から江戸期にかけて、街道や海上交通を用いて人や物の往来が頻繁になり、お伊勢参りや富士講などで人が往き来するようになってみると、内と外との(想像の共同性の)障壁が動き移動する。それは、わが身に備わった「想像の共同性(の限界)」が外との対象によって明らかにされることでもあり、その差異と相似性についてわが身の裡に確執を醸す動機ともなった。この対照する年月が長くあったことによって、日本の近代への移行が緩やかに準備されていたと、今となっては振り返ることができる。
つまりこうして、想像の一体感をもつ(日本の)ネーションが、どうして隣の(韓国の)ネーションに対してヘイトスピーチをするのか。これが、じつは目下の私の関心事である。参院選で政党要件をクリアしたというN国の地方議員たちが口をそろえて韓国へのヘイトスピーチをしていることに驚いている。ワン・イッシューで票を集めたとマスメディアは評しているが、すでに地方議員であるN国党員たちがなぜ、ヘイトスピーチに溺れるのか。ヘイトスピーチをする(排撃する)ことによって、排撃されないネーションを囲う心理作用があると聴かないでもない。だとすると、そうでもしないと不安でしょうがない現実の方が、問題にされてもよいはず。それは何だろうと、疑問に思う。どこへぶつけていいかわからない憤懣を発散する一つの道と見れば、精神分析的には完結するであろう。だが政治家が、それをすすんで引き受け、一定程度の支持する住民がいるということは、ネーションの基盤に危機的な何かが生じているからではないのか。
いつかも話題に取り上げたが、大谷翔平や大坂なおみ、サニブラウンや八村塁、あるいはつい先日の全英オープンゴルフで活躍した渋野日向子を「日本人の活躍」ともてはやすのは、ただ単にスポーツゲームにおける優秀な能力の称賛というだけでなく、あたかも(同じ日本人である)自分が活躍しているように受け取るネーションの(一体性を感じる)素地が働いている(と私は自身を解析している)。つまり人は、身びいきを組み込んではじめて、出来している事態をわがコトのように感じとる回路を経ているのだ。ところがそれに対して(東洋経済onlineが紹介したように)「サニブラは父親の血を受け継いでいるだけじゃん。自分の力じゃないんだよ。それを日本人の活躍なんて、笑わせるな」というヘイトスピーチがSNSに流されていると聞くと、日本社会において報われない立場に置かれている若者の鬱屈を感じる。先に述べたN国地方議員の韓国へのヘイトスピーチにも、その臭いがする。隣国のネーションを謗ることによって自己を正当化しようとし違っている衝動が、臭ってくるのだ。それは文字通り、日本のネーションが危うい現れではないか、とも。
何が危うくなっているのか。それを冒頭に掲げた大澤真幸の五点に絞って考えてみると、世界経済や国際関係における日本の立場が「①」を揺るがせている、という実感。グローバリズムの進展と情報の伝達速度と範囲の急拡大によって、じつは「②」もぐらついている。それが社会的に身をおいてみると、「③」がはたして内実を備えているのかという疑問は常につきまとう。かつて「想像の共同体(国体)」として天皇制を掲げることができた「④」も、いまやメディアの売り出しモノになっている。そのことから、とどのつまり、現政権によって政治的に強力なネーションの提示がなされてもいいはずだという願望が「⑤」として噴き出しているのではないか。
上記のネーションの揺らぎを実感させるのが、じつは社会において身を寄せる(家庭や会社や地域や学校などなどの)「中間共同体」が、包摂力を失い、経済競争の渦中に取り込まれて個々人はばらばらに社会権力の中枢に取り込まれているからではないかと私は推察しているのだが、これも即断はできない。
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