2019年8月4日日曜日
向こうさんの論理的正当性
先日BS-TBSで橋下徹(元大阪市長)が「弁護士として……」と前置きしながら、いま問題の日韓関係で懸案の「徴用工問題」に対する見立てを述べていて、おやっ、と思った。基本的には、「相手には相手の立論の合理性があることを、弁護士は見極めて、その相手の論理を崩すような反証をしなければならない」と、職業上の(対立する相手との)向き合い方を説いたうえで、二点指摘していた。
(1)韓国最高裁の判決は「日韓併合が韓国側の同意を得たうえでの処置だったのか、同意を経ずに日本が強行したものだったのか、その点の理解にかかわっている。1965年の日韓条約ではその点をあいまいにしたまま植民地時代の損害賠償は、今後求めないとしたものだったために、(韓国側の同意はなかったと考える)判決では、日韓条約の合意内容自体が無効とされた」と。
(2)国際法的な考え方として、「戦中の被害について(個人は)自国政府に損害賠償を求める権利をもち、もし自国政府が補償しない時には、対戦相手国にその損害賠償を求めることができる」という判例もでてきている。それには時効がない、とも。
橋下徹の主張は、韓国最高裁の判決文を読めば(1)であるから、裁判における(三菱側の)弁護活動は「日韓条約で解決済み」というのでは全く不十分で、「日韓併合の正統性」を争うだけの弁護をしなければならなかったのに、そこまで踏み込んでいなかったと、手厳しい。
そうして(2)の論理が生きてくると、(個人への)補償をしようとしない韓国政府とは別に三菱に対して請求するということが正当化される。
橋下の話を聞いて、国際条約の締結をないがしろにする韓国の司法も行政も、どうなっているんだと思っていた私は、頭を殴られたような気がした。上記のようなことを指摘した橋下は、「売国奴」のように(彼の周りの関係者から)謗られているそうだが、きちんと文面に目を通して、そこまで踏み込む橋下の姿勢に私は啓発されるように思った。まず私たちは、韓国最高裁の判決文を読まない。メディアがそれを報じていれば、あるいはそこに注目したかもしれないが、何だか韓国の人たちは「恨」の感情をベースに、日本憎しで国民的なアイデンティティをかたちづくっている、偏狭な人たちと考えていた。1910年の韓国併合の「正統性」については、当時の大韓政府が(ロシアからの脅威を回避し)李氏朝鮮を廃絶して近代化へ舵を切るためにやむなく取った措置(合意)ときいていたからだ。それとも韓国では、歴史修正主義が横行して、かつての歴史的事実を書き直して民族的な一体性を作り出す段階にあるというのか。
ひとつ気になるのは、韓国の人たちは、果たして国民的な一体性を(どう)持っているのかという疑問だ。大統領が代わると、必ずといっていいほど(犯罪者として)訴追されるという韓国政治のありようは、自分たちが同意しない政府の所業は決して許さないとでもいうような「非同意」を突き付けている。民主主義というのを私たちは、選挙によって選出された国会と政府が決定して執行することについて(手続き的な不備がなければ)、不同意の人たちをも拘束することだと考えている。それがある種の、民主主義社会の「社会契約」を成立させている。だから日本の場合は、いろいろあっても、(正当な)政府がやったことはひとまず不同意の人たちも含めて「自分たち」がやってことと受け止める。それがないということは、ある利益代表(政党)が政権を取り施策を実行するときに、果たしてそれが、「公共の福祉」(=国民の暮らしの安寧を確保することになっているのか)と考えることはなく、まるで藩閥政治がつづいているように、やっとわが世の春が来たとばかりに権力を恣意的に揮うのか。未だ韓国は、その段階を抜け出ていないのか。
それとも私たち日本人が、島国的な一体性を保守することによって、悪行は水に流し、いやなことは忘れてしまうナイーブな気質を持ってしまっているのだろうか。
(2)の動きは、進行する経済のグローバル化によって、かつては声を出すこともできなかった人々が発言し始めた世界情勢と関係していると思われる。これが新しい(世界の)動きだとすると、たとえば広島・長崎の被爆者や東京や全国各地の大空襲の被害者なども、(勝手にサンフランシスコ講和条約で戦争補償を放棄したことを非難し)日本国家に向けて、もしそれが応じなければアメリカ国家を訴えて、訴訟を起こすことができるようになる。三菱の在韓資産を差し押さえるのと同様に、在日米軍の資産を差し押さえて日本の国防費に回してしまうという荒唐無稽な漫画を思い描いてしまう。
ま、どうこういっても、国際関係もデファクトスタンダードがある。先行して手を付けた欧米の論理が優先するのは仕方がないと私たち日本人はあきらめが早い。それと違い、そのスタンダードを組み替えて自らの意思と論理を貫こうとする中国的な覇権主義をとるのか、韓国的な「恨」の執念深さを保ち続けるのか、じっくり考えなくてはならないね。淡泊、諦念、単純素朴というのは、わが国だけで通用していた生活規範なのかもしれない、と思う。
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