2019年8月31日土曜日
プランニングと心の習慣
山の会の山行計画は、半年単位で立てて、皆さんにお知らせしてきた。月例は基本、水曜日とも決めた。立案前の山行時に、どんな山に登りたいかとも聞く。こんな山を考えているとも話す。こうして、ふた月前の泊りの山行の折に半年間の計画をまとめて提示する。会の皆さんは、それに合わせて、その後半年の暮らしの計画をはめ込んでいく、というふうに。
こうして五年経った頃、昨日記したような事情が出来して、私の立案する月例山行を副として、会員の立案する山行・「日和見山歩」を主とする山の会へと、編成替えをした。しかし事務局は私がやっているから、「日和見山歩」もプランは私のところへ送られてきて、私が皆さんに送信するという仕組みは、相変わらず続けている。言うまでもないが、送信するアドレスは、全部の会員にオープンになっているから、会員同士が連絡を取るのはもちろんできるし、「日和見山歩」は立案者がチーフリーダーになるから、参加の是非はそちらに連絡してもいいことにしている。そうして実は、「日和見山歩」の出席はチーフ・リーダーへ直接知らせが行くようになっていて、私は後で聞かされることが多くなった。もちろん、それはそれで、一向にかまわない。
「日和見山歩」を主流にしたことによって、私の山歩きはとても自在になった。私の立案する山歩きがきつすぎて参加しない方が増えていたが、逆にそれは、私の山行計画を面白いと思う方々が、つきあってくれるようになった。またその方たちの内の何人かは、山へ週1回足を運ぶようにもなっていたから、それまで単独行が多かった私の週1の山につきあってくれるようになった。私は心の臓にちょっと問題を抱えている(と医者に言われている)から、私にとってもそれは好都合であった。そうして私は、こんなところへ行きたいという山行計画を実施日を定めずその人たちに提示し、その人たちが、自分たちの希望を盛り込んで、さらにそこに季節の登攀条件や景観や花の見どころなどを吟味して、実施月日を決めて、私に投げ返す。私はそれを、さらにアクセスや宿泊、行程の子細を付け加えて、半年以上分を、山の会員全員に「月例山行」「トレーニング山行」として公開し、参加希望者を募るという手順を踏んだ。白山や表銀座は、その私の同行者たちの希望から拾ったものであった。
ところが先日「白山」に登った折、「日和見山歩」のほうが影が薄くなっていると指摘を受けた。月1で行う「月例山行」、やはり月1の「日和見山歩」に加えて、「トレーニング山行」が月2回ほどになったから、圧倒的に、泊りをともなう「月例」や「トレーニング」山行が量的に押しているように見える。さらに私は、私が参加した「山行記録」をかならず書き留める。山の会の会員には、それに写真をつけて、pdfファイルにして送信する。「日和見山歩」の方は、私が参加していれば「山行記録」は書き留めるが、参加していない時にはチーフリーダーが書き記さなければ、そのままになって、参加しなかった人たちには、実施したかどうかもわからなくなる。影が薄くなるのは、当たり前と言えば当たり前だ。
だがそうではないのではないか。というのが、今私がここに書こうとしていることだ。白山で「日和見山歩」の影が薄いと訴えたのは、足腰の故障から立ち直って用心しながらも山への意欲を絶やさない人だ。その人にして、そのような訴えをさせたのは、「山に向かう心の習慣」が消えかかっているからではないのか、と思ったのだ。
私の立案する山行計画は半年先までのものだ。「日和見山歩」のそれは、実施月日とチーフリーダーが記されているだけで、どこへどのように行くという「山行計画」にはなっていない。それは担当のチーフリーダーが立案して私に送ってきてくれたらすぐに皆さんにお知らせしている。たいていは一月前。しかし実施日が変わったりする。「月例」も「トレーニング」も、お天気によって変更はするから、変更自体は何の不思議もないのだが、半年計画の実施日が当てにならないこととは、ちょっと違うんじゃないかと私はみている。半年先までのプランがあると、それが先行する。その後の暮らしのプランは、山行計画を避けて立案される。そういうときに培われる「山に向かう心の習慣」は、案外、意欲に関係し、週1の山登りさえも、次に控える○泊○日の山行のトレーニングとして、視界に収まる。つまり、山が暮らしのリズムなかに織り込まれる。
「日和見山歩」の影が薄くなったというのは、「山に向かう心の習慣」が薄れてきたということではないのか。それは、山が日々の暮らしに織り込まれていた状態から一歩遠ざかり、非日常的な営みの位置にかわったということではないのか。
一般的にいえば、そもそも、山行は単なる物見遊山、非日常的な営為である。だが山の会に加わって山に行くというのは、暮らしのなかに組み込むという意味で、日常的な生活習慣である。高度消費社会になってから、非日常的な営為と日常的な生活習慣との区別もつきにくくなってはいる。マスメディアの番組も、どちらかというと消費的になって非日常的な「特異な」事象が日々繰り広げられて、私たちの感覚も日々、お祭り騒ぎ的にかたちづくられてきている。
その感性と、きっぱり手を切るように「心の習慣」を見つめ直す必要がある。半年先のプランニングというのは、その第一歩のかたちだと思う。
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