2019年8月28日水曜日

槍ヶ岳・表銀座縦走(4)まず満点の山行であった


 夜中に目を覚ますと、大雨が降っているような音がしていた。まいったなあ、穂先はあきらめるしかないか。4時に起床。外へ出てみる。雨粒が大きい。一応皆さんには「小降りになれば穂先に登ります。朝食前に登ってくる場合もあります。その心づもりをしておいてください」と伝えて、下山時の荷物のパッキングをしてもらった。ysdさんが「筋肉痛がひどいので、穂先へは遠慮したい」という。3人でも登ろう。そう思いつつ5時前、外へ出てみると、霧は深いが雨はやみ、風も少し穏やかになっている。


「行きましょう」
「ヘッドランプがみあたらない」
 とkwrさんがいう。
「ysdさんに借りれば」
「えっ、ysdさんが行かないのなら、私も行きません」
 と考えていたと、のちに聞いた。ところが、ysdさんは行くつもりになっている。
「ヘッドランプ、要らないですよ。ぜひ行きましょう」

 こうして、5時に出発した。ペットボトルを一つ持って、上りはじめる。先行していた学生グループの先遣隊を追い越して、穂先稜線の北側へ一度乗っ越す。そこの岩を辿って南側ルートへ踏み込む。すべて屹立した岩場。ただ、つかむところはけっこう多い。足の置き場も、一部を除いてそこそこ見つかる。ただ、角度が厳しいから、怖さが先に来ると登れなくなる。ysdさんは着実に私の後に着いてくる。この岩場はどちらかというとkwrさんの好み(だと、私は思う)の上り。黙ってついてくる。kwmさんが最後尾をサポートする。穂先稜線の南側へ踏み込んだところで、たぶん半分程度を上っていると思った。その先で、下りとの合流点がある。もしここまでで難しいと考えたら、ここから下りへ入ってもらうしかない。しかし、どなたもその気配がない。行きますよと声をかけ、上へ攀じる。岩がのっぺりしたところが一カ所ある。しかしそこには、鉄の手がかり足掛かりが打ち込まれてあり、それをつかみ、踏んで身を持ち上げる。水に濡れていて、しっかりつかまないと滑り落ちる。最初の鉄梯子がある。見下ろすとkwrさんもkwmさんも離れずついてきている。ysdさんは他のことを何も考えず、ただただ、岩と手足の置き場とに専念しているようだ。

「こことこの上のハシゴを上ると山頂です」
「えっ、もうそんなに。そうですか、よかった」
 と嬉しそうな声を上げる。そうして、最後の長いハシゴを上りきり、槍ヶ岳の穂先へたどり着いた。男性が一人いただけ。霧が深く、周りは何も見えない。山頂の北の方に祠が鎮座している。その屋根に「奉納・槍ヶ岳3180m」と書いた板の看板が置いてある。ysdさんにつづいてkwrさん、kwmさんが登ってくる。3人を祠の前に座らせ、「槍ヶ岳」の看板を持ってもらって、カメラのシャッターを押す。ysdさんがスマホを出して、シャッターを押してくれという。たぶん、家の方に送信するのだろう。さかさかと写真を撮って、すぐに降りることにした。kwmさんの後から、のぼるとき追い抜いた学生グループのリーダーが、その後続が登ってくる。

 下山がまた、ひときわ緊張を要した。ysdさんは「脚が短いから」とこぼしていた。kwrさんも、どこがどうと覚えていないと必死であったことを隠さない。こうして登り口に降り立ち、時計をみたら、6時1分。ちょうど往復1時間のコースタイムであった。

 山荘に戻り、朝食に行く。ほかの方々はすっかり食事を終えて、出発にかかっている。私たちの数をみて、食堂の係員が慌てている。焼き魚の数が足りなかったのだ。穂先を攻略した私たちは鷹揚であった。「朝飯前だ」とうれしさを隠せない。こうして前日、草臥れてすっかり意欲を失くしていたkwrさんばかりか、ysdさんまで穂先に到達し、私たちは意気揚々と下山を開始したのであった。7時15分。

 槍沢の下山ルートは、上からみると大変な急斜面。かつて覆っていた氷河が地表を削りながら滑り下り、上の段のカールをつくっている。その底に殺生ヒュッテが見える。そこまで降り立つと、さらにその下にカール様のもう一段削られた深い谷がつづき、二段目カールには蕃竜窟と呼ばれる大岩の洞があり、少し下に大槍ヒュッテへの分岐点がある。槍沢は、そこからさらに一段深くえぐられ落ちて、槍沢小屋手前の大曲へと見晴らせる。二段目カールのところまで上がらなければ、槍ヶ岳の穂先は望めない。しかし深い霧に閉ざされ、上の方も下の方も見晴らせない。kwrさんは調子よく降る。今日私たちは徳澤園まで下ればいい。6時間の行程。疲れが出ていても、7時ころの出発となれば午後2時過ぎに着く。ゆっくり行こうぜと、ブレーキをかける。カメラはすでに、kwmさんに返している。ysdさんの歩調が、ちょっと苦しそうだ。

 下り始めは雨であった。私は傘をさして下る。急斜面をジグザグに刻み、岩を伝うようにして順調に歩く。この槍ヶ岳を開山したとされる蕃竜上人が、長く逗留してルートを開いたときの修業場所が蕃竜窟であると、昨日の歌手から聞いた。それをすぎると、上ってくる人たちと出逢う。槍沢小屋を早暁に出た人たちだ。彼らに穂先の様子を問われ、「いや、雲のなかでした」と応えているkwrさんの声を聞きながら振り返ると、槍の穂先が姿を現し始めているではないか。下から登ってきた人たちも、「あっ、あっ、見えるぞ」と大声を出す。一部には青空まで現れる。

 若い人たちが、私たちを追い越してゆく。速い。彼らは今日、上高地まで下り、バスに乗って帰宅しようとしている。槍穂の山頂で出逢った大学生のグループも、追い越して、足早に降りていった。コースタイムで歩けばいいと思っている私と、後期高齢者なんだよ私たちはという自意識が、慌てない慌てないと、私の心のブレーキになる。そうだよなあ。若いころは、負けず嫌いだったから、時間を競って上り、下った。他人に負けるのが悔しかった。あの気分は、何だったのだろう。どこへ行ったのだろう。下山路の左側には、昨日歩いた東鎌尾根が峰を連ねる。その上部から、降った雨を集めてあちらこちらから瀧が降り注ぐ。それもずいぶんな水量がある。それらを集めた槍沢の水は濁って勢いを増し、どうどうと音を立てて流れ下っている。お花畑が現れる。季節を集約しているように、夏の花も秋の花も一斉に開花している。下る先には常念岳の山頂部とその手前の中山2492mが緑濃い山体で立ちはだかる。

 歩き始めて3時間弱で大曲に着いた。ここは、西岳からのエスケープルートにあたる。あと50分ほどで槍沢ヒュッテに着けるだろう。ysdさんが、なぜか苦しそうだ。あとで分かったが、脚にまめができていたそうだ。靴ひもがほどけてしまうと、よくしゃがみ込んで直していた。それもこれも、たぶん、関係あったのだろうが、そのときにはわからなかった。

 11時、槍沢ロッジに着く。たくさんの登山者が休んでいるが、半数はこれから登る人たち。お昼をふくめ、大休止をとることにする。ここにも、インスタントのコーヒーを100円で呑ませてくれるサービスがあった。身体が温まる。12時前に出発する。大勢の登ってくる人たちとすれ違う。時間を考えると、彼らの今日の目的地が槍沢ロッジなのだろうと思う。霧はまだ深い。槍沢の水面から靄が立っている。槍沢の水が、石ころばかりの川床を押しのけるような勢いで、下ってくる。

 二ノ俣の沢を橋で渡り、一ノ俣の流れを過ぎて、ようやく横尾らしい樹林帯に踏み込む。高度差は、あまりない。木道がところどころに敷き詰められ、ぬかるむ登山道から登山者を救っている。今度は、中山や常念岳からの水が大きな流れをつくって、槍沢に流れ込んでいる。13時35分、横尾着。横尾の広場の皆さんが、皆一斉に横尾谷の方を覗いている。なんだ? クマだよクマ、と告げて、年配の登山者が槍沢の方へ向かった。クマの親子が出て、いまそれが横尾谷の方へ移動しているという。それを見続けようと、人の群れが、ゆっくりと横尾谷の方へ移動する。可笑しい。

 横尾から徳澤への道筋は、ずいぶん整備された。すっかり車が出入りできるようになっている。雨が上がり、少し明るい陽ざしもみえる。屏風の頭が景観を遮り、その南側の明神岳も威容を誇るように少し雲をかぶって姿を見せる。しばし見惚れる。山側にはキツリフネやシャジンの仲間が花をつけている。のんびり歩いていても飽きの来ないルートだ。14時45分、徳澤園着。下山開始から7時間半。ちょっとのんびりしたが、それでもコースタイムを30分しかオーバーしていない。4日目の疲れを勘案すれば、十分高齢者としてはよく歩いた。そう思った。

 表銀座を歩いた。しかも槍の穂先にも登った。ほぼ満点の山行であった。全日雨がつきまとったが、不思議にも身体はそれに馴染んでいる(と私は思っている)。kwrさんも、靴に水が入ってだいぶ不快だったらしいが、雨に濡れたことはさほど苦にしている様子はない。ysdさんが、足の豆にもかかわらず、よく頑張ったと思う。もし途中で彼女の状態に同情したら、彼女自身が歩く気を失くしてしまうのではないかと、私は案じていた。kwmさんの高度障害が出なかったこと、胃の不調が現れなかったのは(先頭のkwrさんのペースをふくめて)歩き方が良かったからだと、私は勝手に解釈している。まず、徳澤園の風呂で汗を流す。徳澤園の併設されたレストランへ行って、私たちは生ビール、ysdさんはソフトクリームで乾杯する。意外にも、kwrさんが限界状態で歩いたと聞かされる。この下山の乾杯を、最初ysdさんは「反省会ですか」と言った。私は即座に「先があるから、あなたは反省をしてください。私らは先がないから、下山を言祝ぐだけです」と応じた。その言葉通り、(今回も)登れましたよ(ありがとうございました)と、山の神に向かってご報告したい気分であった。(つづく)

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