2019年8月2日金曜日

疲れ具合がわからない


 一昨々日山から帰ってきて、その日に同行した方から「無事帰宅」のメールがあった。その文面に、「お疲れ様」とあり、そうだ、疲れたのだろうかとわが身を振り返る。疲れたかどうかが、わからなくなっている。同行者の一人は帰る電車の中で、「いや、よく歩いた。全部力を使った感じ」と、おおよそ2万8千歩の三日目の歩行の感想を述べた。標高差1500mほどを上り下りした。まして後期高齢者である。それは率直な感想であったろう。


 昨日「山行記録」を書きあげ、山の会に皆さんにはそれに写真を貼付してpdfファイルにして送信した。そこまでがいつもの私の「始末」である。こうして夏の山の第一弾は終わったが、ぐったりもしない。ま、この程度の山ではと思わないでもないが、8年前に孫を連れて登った時の「優しいルートだった」という印象が、案外違っていたことに8年の加齢を重ねて、気づかぬままの凋落を考えていた。

 今朝、いつもの7時間半で目が覚め、しかし起きだす気にならずうとうとしていたら、結局9時間横になって寝てしまった。ま、寝ることが恢復の唯一の方法だと思うから、寝ている時間を気にしたことはないのだが、起きだして、おおおっ、とわが身の硬さに驚いた。起きてすぐにTV体操というのも、いつもと違う段取りだったが、跳んだり跳ねたりはもちろん、身体を回すところはしっかりと腰を軸にして大きく回す、伸ばすところは伸ばすという仕種が、できない。それをやってしまうと、どこかがコキッといきそうな気がして、危ない感じだった。ははあ、これが、山の疲れだ。

 でもまあ、その程度で済んでいる。暑い日差しの中を歩いて医者に行き、定例の薬をもらって、町と人とを眺めながら帰ってもきた。この後図書館へ足を運び本を返し借りてくる。お昼前に、ご近所の友人を訪ねて手渡すものがある。午後には成田空港まで行ってブラジルから帰国していた姪っ子が二人の子を連れて再びブラジルへ出立するのを見送りに行く。何もかもが面倒だなという気持ちにならないから、それほど疲れてはいないのだろうと自己診断している。

 じつは自身の感知機能が衰えてきていることを、日々の立ち居振る舞いを通して、それとなく感じている。つまりわからなくなっているのだ。鈍くなっている。そのように、いろいろなことがわからなくなってきている。これが高齢化というやつかと思うから、成り行き任せで、特に何か対処しようとも考えていない。でも、何年か前までおしゃべりをして行き来のあった方が、認知症がすすんでいるが、でも本人はそれに気づいていない、と具体的な振る舞いの話を聞くと、どっかでメリハリをつける方法はないものかと、わが身の先行きを思案しないわけにはいかない。

 カミサンは「わたしがボケたら、介護施設に入れてね」というが、当人が自覚していないのでは、施設への入所も手古摺るに違いない。そう応えると、「そうねえ、それはむつかしいわね」と、やはり思案投げ首の様子だ。二人して、どうしたものかねえと、そう遠くない将来のことを気遣っている。

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