2019年8月30日金曜日
苦しみを楽しむ
昨日「槍ヶ岳・表銀座縦走」の山行記録を書きあげ、今朝、それに写真をつけ、pdfにして山の会の人たちに送った。全部で18ページという大部になった。
送り終えてTVをつけると、NHK-BS1で「奇跡のレッスン 陸上長距離」をやっていた。イタリアから来た世界的な長距離走のコーチが、東京の中学の駅伝ランナーを一週間指導した記録だ。陸上の長距離は、登山に似ている。ランニングの姿勢は歩行技術だ。もっぱら遅筋を上手に配分して使い、急登や岩場などでは速筋も必要になる。なにより、他の人と(順位を)競うというよりも自分との闘いがモンダイというう向き合い方が一緒だと思う。
ことにこのコーチの、目標設定の仕方がいい。自分の力量の95%を超えるように、いつも全力に挑戦する。まあ、この程度でいいやと思うと、力を伸ばすことはできない。全力を出すというのは苦しいが、苦しさを楽しむようにして力を伸ばしていけと、中学生に働きかける。
山歩きも、その通りだ。年を取ったから、今持てる力をさらに伸ばすということは考えていないが、ギリギリのところを攻めていないと、現在の力を維持できない。それくらい、還暦を過ぎてからの身体能力の衰えは、速度が速い。
大半が高齢者である私の山の会の人たちは、しかし、現代の高度消費社会の文化にすっかりなじんでいる。苦しみを楽しむなどというのは、ことばにも出てこない。日本代表級の競技者が、競技を楽しんできますと緊張をほぐす意味を込めて話していても、受けとめる私たちは文字通り「娯しむ」と受けとめる。それが高度消費社会の消費者のありようとでもいうように。まして、私たちは高齢者。ちょっと無理をすると、骨を折ったり身体を壊す惧れがあるから、用心に用心を重ねる。そのうえ高齢者の育ってきた社会の規範は、「他人に迷惑はかけない」ときている。だから「苦しさを楽しむ」ということばは、論理や表現としては理解できるけれども、実際的にそうするわけにはいかないと、内心のブレーキがかかる。そうして多くの方々が、ギリギリの力からすると、だいぶ余裕を持った山歩きしかしなくなった。それは同時に、力の減退を意味してもいる。
山の会の、私の立案する山行に付き合ってくれる方が、減ってしまった。多くて5名か6名。たいていは4名くらいになった。むろんそれが一概に悪いわけではないから、会員がCL(チーフ・リーダー)となって企画し、呼び掛けて実施する「日和見山歩」を(山の会の)主流山行におくことにした。しかしそちらの方は、例えば半年先までという長いスパンで山行計画を提示するわけではないから、わが身をそちらの山行計画に合わせる「心の習慣」が根付かない。たぶんそのときどきの気分で、行くか行かないかを決めているんじゃないかというくらい、消費者的になって来たように思う。つまり、山の会の山行が二分裂してきた。
ま、ま、いいか。これまで私が一人で行っていたところへ、付き合ってくれる人が数名いるというのは、心の臓にいくぶんの不安を抱える私としては、骨を拾ってくれる同行者がいるわけだから、もって瞑すべし、だ。苦しみを、楽しむ。どうしてそんなことをするんだろうねえ、と思わないでもないが……。
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