2019年8月25日日曜日
文化の細いきずなとナショナリズム
大澤真幸が「想像の共同体」を梃子にまとめたナショナリズムの五点の特徴をもとに、さらに踏み込んで話をすすめていきたい。
① 「知らない者同士」が国民である。
② ネーションは「限られたもの」である。
③ 共同体を構成するメンバーの平等性
④ ネーションは「客観的には新しいのに主観的には古い」というねじれをもつ
⑤ ネーションは基本的には文化的な共同体だが、政治的に自立した共同体でありたいと強い欲求を持つ。
①が「国民」という一体感のベースになるのは、「俗語/口語」の共通性だと前(8/11)に述べた。それは同時に、「共通性」をもたないものを②として排除するモメントをもつ。つまり、②のモメントが発生することによって①が保たれているともいえる。
ところが、中産階層が社会の大多数を占めるようになって③が具現すると、社会的には不安定になる。なぜか。私たちの具体的な関係は、つねにかかわる者同士の優劣をともなう立ち位置が(それなりに)明快であることによって、安定をもたらされているからである。
「子どもがヘンだ」と謂われたときの親子の関係もそうだし、「学級崩壊」が騒がれた教師と生徒の関係もそうであった。つまり、1970年代後半から80年代のジャパン・アズ・ナンバー・ワンと呼ばれた時代を通して、圧倒的多数の中産階層が生み出され、人々がフラットにかかわり始めた。優劣をないがしろにする「かんけい」が蔓延したのである。そのことによって、一人一人の心裡における「関係の定位」は、とても不安定になった。
ことばを換えれば、こうも言えよう。それまでは「関係の優劣」は社会的な「権威」や「仕組み」や「共通規範」によって共有されていた。秩序感覚である。それが崩れて、「関係の優劣」は人それぞれの「かんけい」において、その都度紡ぎ直されなければならなくなった。むろん、家庭においても、企業や学校という社会団体においても、社会関係がフラットになったからといってすぐさま団体内部の「関係」が変わるわけではないから、それぞれの団体の、秩序感覚の弱いところから崩れていったようであった。優劣の存在が我慢ならないことによって、鬱屈が溜まり、噴出する。家庭でも学校でも、「弱い環」がトラブルを起こし、事件になる。そう考えてみると、80年頃に「非行」「家庭内(校内)暴力」や「不登校」や「ひきこもり」が多発し始め、社会問題として取りざたされるようになったのが、その走りだったともいえる。その後、その傾向は強まり、社会的には「多様化」だとか「人それぞれ」と呼ばれ、「優劣」それ自体が「かんけい」において不要なことのように扱われるにつれて、社会的な定位を求める(秩序感覚の)内的衝動は、社会的な共通感覚からはずれ、個々人に委ねられるようになったといえよう。
これは個々人にとっては、事態がますます過酷になったと言わねばならない。能力主義の謳歌もともなって、経済力のあるもの、いわゆる「学校歴」の優れたものや企業や出自の優位な位置にあるものは、自ずと社会的な「関係の優劣」に心煩わせられることなく、振る舞うことができる。小さな社会団体や自主的な(スポーツや趣味や特技の)ネットワークにおいても、優劣の関係が安定しているものは、身をおいても不安定を感じることはないであろう。
しかし、その内部の個々人の「かかわり」における優劣を定める「つなひき」は、頻発するようになったともいえる。むろん、ジェンダーもあるから、家庭における人と人との確執はますます過酷になっていった。それらがすべて、個人的なモンダイとして(社会的に)扱われることが常態になり、ますます弱い環は厳しい環境に置かれたわけである。
それを凌ぐことができたのは、自らを、さしてとりえのない平凡な市井の人と位置づけ、資本家社会のドライブパワーに振り回されることもなく、「慾ハナク 決シテ瞋ラズ イツモシヅカニワラッテヰル」人たちではなかったか。まさに庶民の伝統的知恵がかろうじて、暮らしにおける「かんけい」の安定を保つ力になっている。だがこれは、近代というよりは、それ以前の中世的感覚に近い。はたして④の「客観的には新しいのに主観的には古い」社会的共通感覚の中軸になるだろうか。
バブルが崩壊した90年代以降は、経済社会のグローバリズムの進展もあって一億総中流の時代が終わり、「格差社会」が現出した。そのことによって、「関係の優劣」感覚が社会的にあからさまになった。つまり社会感覚から③がほぼ消えようとしているのである。①や②の由々しき事土台が揺るぎ始める。ナショナリズムにとって由々しき事態だ。
たぶんそれを体感しているからであろうが、ヘイトスピーチがかしましくなり、⑤の「政治的に自立した共同体でありたいと強い欲求」が周辺国との緊張を緩和するモメントよりも強く表出するようになった。ナショナリズムの一体感を味わうように、かつての「栄光」を再現するドラマや画像が繰り返され、日本人の国際競技における活躍や「クール・ジャパン」を称揚する報道が力説される。つまり(大澤真幸が要約する)ナショナリズムは、間違いなく衰え始めている。
これはしかし、わが身の裡のナショナリズムを、次元を変えて組み換え直す機会であるように、感じる。その次元が「中世的感覚に近い」次元をどう組み込むか、そのあたりが「鍵」になると私は考えている。だが、その広がりや手掛かりはまるで霧中にあって、単なる私の妄念にすぎない。
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