2019年8月13日火曜日

「想像の共同体」(3)揺らぐネーション


 さらに踏み込んで、大澤真幸が「想像の共同体」を梃子にまとめたナショナリズムの五点の特徴をもとに話をすすめていきたい。
    ① 「知らない者同士」が国民である。
    ② ネーションは「限られたもの」である。
    ③ 共同体を構成するメンバーの平等性
    ④ ネーションは「客観的には新しいのに主観的には古い」というねじれをもつ
    ⑤ ネーションは基本的には文化的な共同体だが、政治的に自立した共同体でありたいと強い欲求を持つ。

 わが裡なるネーションの萌芽は「おくに」にあった。私は香川生まれの岡山育ちということもあって、甲子園の試合に注目するときは、自ずとその両県の代表に目が行っていた。結婚してからはそれにカミサンの生まれ故郷の県が加わったが、学生時代を過ごした東京やいま在住している埼玉県のそれには、ほとんど思い入れる関心を持たなかった。なぜだろう。「ふるさと」という思いがあったからではないかと考えている。東京や埼玉はまるごと私の意識世界であった。いつ知らず身に刻んだ世界「①」は、己の感性や感覚、価値意識の根拠を問うて自画像を描こうとするときの、「原点」を構成している。「なつかしさ」もふくめて、それが私のネーションの「原点」でもあると思う。


 しかし高齢者となってみると、ゆるやかに「ふるさと」も、意識世界の遠景に溶け込んで、「わたしの傾き」としては薄らいできている。高校野球にも関心が薄れ、ときどき新聞紙面で、ふ~んそうなの、と目に止めるくらいである。「おくに」は「国」と同化し始めている。でもときどき、たとえば全英オープン優勝した選手が岡山の出身と聞くと、おっ、と目を止める程度の「傾き」は持っている。ネーションの意識はいつでも(そうでない外部との)対比である。その外部が(「おくに」という対比をこえて)ほぐれて「国」として一体化することが多くなった。たとえば映画「翔んで埼玉」は、東京や千葉との対比をして自画像を描く物語りであるが、いまは「限界集落」「高齢化/過疎化」というかたちの対比がもっぱらとなり、身に刻んだ文化は「遠くにありて思うもの」になり果てている。「おくに」に「限る②」よりは「国」の限定の方がリアリティをもつというわけである。

 ところがその「国」の限定の端境が、危うくなってきた。経済的なグローバル化がベースにあろうが、海外勤務や文化の交通が日常化した。私たち同様あるいは私たちより達者に日本語を駆使する外国人との接触は、メディアを通じてだけでなく、これまた特異なことではなくなった。そうやって触れてみると、同じ日本語を駆使する、文化を共有するネットは、ひょっとすると身の回りの日本人よりもかたちづくられていっているようにも思える。「①」と「②」と「④」とが交錯して、混沌の領域に入る。

 海外を旅していると外部がネーションの鏡になる。外を見てわが身の裡の「文化」に気づくことが少なくない。「水と安全はタダだと思っている」とか「平和ボケ」などと悪態をつかれるが、それでものほほんとしていられる「日本」の社会にホッとしている自分を見出すと、「国」というネーションが再生産される。海外の危険地域のニュースなどに接すると、いっそう「国」が「⑤……政治的に自立した共同体でありたいと強い欲求を持つ」ことへの「傾き」も際立ってくる。

 そこが契機となって、近年の隣国との軋みが意識され、それに対応する「国」の施策が脳裏に浮かぶ。そのとき「同盟国」であるアメリカの振る舞いも視野に入り、しかし、困ったものだなあトランプさんもと、あけすけな口舌と振る舞いに「文化」の落差を意識する。ところが「政府」は、「自立した共同体である」願望とはだいぶかけ離れた対応をしている。その姿勢の無理からぬところがわからないでもないから、余計に、ネーションの一体感は鬱屈する。つまり「⑤」ですら、どこかで機軸を鮮明にしなければならないんじゃないかと、不安定感を醸し出している。

 バブルがはじけてのちの日本社会の変容は、ネーションが溶解し始めていることを示している。溶解してコスモポリタンになるのではない。身をおいてきたネーションは、そう簡単に捨てられない。不可欠とすらいえるほど、自画像を描く際には手放せない。とどのつまり、ネーションが溶解すると、己の帰属先が不分明になり、不安感が増す。いまマス・メディアもネットメディアも、人びともその不安に(それとわからぬままに)取り付かれている。

 それに対処する手っ取り早い方法が、ヘイトスピーチだ。もちろん近隣の「国」や「文化」に対して悪罵を投げつけるのも一法ではある。同時に、国内の「けしからぬ輩」に対して罵詈讒謗を浴びせる、ときには具体的に攻撃を仕掛けるというのが、手近で容易な方法である。それが、噴き出しているのが、まずはSNSのチャットであり、「炎上」である。つまり、繰り返し、自分の「正統性/正当性」を明かすために、ネーションからはずれる(と自分が信ずる)振る舞いや言説に対して、具体的に攻撃を仕掛ける気配に、満ち満ちている。

 以上のような構図を、最近の社会状況として思い描いている。

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