2019年8月5日月曜日
複雑化する状況把握
日米韓外相会談が行われ、韓国外相が発表したことと日本の外相がコメントしたことが食い違う。アメリカの外相がどう反応したかということがに受け止め方の違いがあるのを、私ら外野は、ふむふむと聞いている。日本の外務省は、韓国大使館に抗議したりしているらしいが、それは言葉になったことにはどんなことでもとりあえず文句だけはあるよと言っておこうという振る舞いだろう。あるいはロシアとの北方領土交渉の「気配」について、河野外務大臣はわりと率直に「交渉中のことですからコメントできません」と発言するから、それが信頼感を醸し出すが、木で鼻をくくったようなロシア首脳の領土に関する発言を聞くと、安倍首相の(領土返還にかかわる見通しの)ことばは何を根拠にしているのだろうと、不信感を間違いなくいや増しに増す。
政治家の発言を庶民がうけとるとき、トランプ流のフェイクニューズじゃないが、どちらも自分の言い分を正当化しようとしていると受け止める。あるいは韓国外相は自国向け(国際世論向け)にそのような発表をしているとみる。政治というのがマキャベリ以来、目的達成こそが真実であってそれ以外の手練手管は、いかように卑怯卑劣であっても構わないと(政治の本質を)みてとる眼力を持っているから、道義的に許されることではないが、彼の国の交渉担当者も(国内世論や国際世論の狭間にあって)必死なのだろうと、つい同情さえしてしまう気分になる。プーチンやメドベージェフの発言も、駆け引きとしては(交渉の余地を感じさせないほど)強烈だなあと感服したりする。その強烈な態度をみていると、安倍首相の楽天的な見通しは根も葉もない嘘と響くというわけだ。
だが落ち着いて考えてみると、上記のことどもは、状況が複雑化しているわけではない。私の受け止め方が複雑化しているのだとわかる。つまり、日韓関係や日露関係、あるいは国際関係は「かくありたし」という私の胸中に抱いてきた思いと、現実の「本質的な」展開とが、確実に齟齬しているという事実だ。もちろん、国際関係という場における「事態」とそれを関係国の国内事情からみたときの「事態」とが取り分けられて発現しているのが、「報道」とか「情報」という同一フラットで現れてくるから、ややこしく複雑化しているように見える。むしろ国際政治は、いつもホンネで、本質的なことを突き出して、にこやかに力と力とが角突き合わせて競り合い、落ち着くところへ落ち着くという諸力諸状況のしからしむるところに向いていくに違いない。その諸力諸状況のなかに(ネットを通じて情報が多様多種のかたちで飛び交っていることが作用して)マスメディアだけでなく、チャットメディアも含めた「世論」(というつかみどころのない意思)が、以前に比べれば作用しているのかもしれない。トランプさんは「フェイクニュースを流しているのは 知的権威メディアだ」といっているが、彼のいうフェイクニュースというのは、私がこれまでとらえられてきた(ある種普遍的な)理念的な考え方である。それが崩壊して行っているにすぎない。だから複雑になっているように見える。
事態を見極めるには、どこに身を置いてみているかを限定しなければならない。身を置いて、自分がどのような傾きを備えて物事を見ているかを、まず限定する。そうしたうえで、相反する相手の限定的な(合理的)見方を探る。一事相反的にみる見方を身につけなければならない。私の見方に好ましく見えることが、そうでない人たちには嫌悪に満ちている。だがそれにはそれの、たぶん、合理性が潜んでいるとみることによって、自分の限定性を忘れないようにする。ま、その程度の心構えで、フェイクかどうかを見破れるかどうかは、わからない。判断を棚上げすることが多くなるような気がするが、そもそも世の中のものごとの動向を決定する力なぞないわけだから、何かの芸能会社の若手芸能人のように「静観する」というのが、真っ当な反応。判断を保留したとて、だれが困るわけでもない。
さて今朝からまた、三日間、遊びに出かける。今度も動き回るとはいえ、骨休め。静養みたいなものだ。帰ってきたら、また、お会いしましょう。
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