2019年9月30日月曜日

(2)ボヘミアンと使い捨て


 Seminarの「団地コミュニティの社会学的考察」でもう一つ物議をかもしたのが、私たちの寿命と建物の劣化をどう考えるか、であった。時間がなかったSeminarの場では、説明もしなかったし、やりとりも行えなかったが、fjkwさんが「子や孫に受け継ぐってことを考えなきゃあ、良くないわよ」と言い、tkさんが「子どものいない人だっているよ」と受け、「それって、都市計画のモンダイじゃないの?」と返したところで、終わってしまった。少し丁寧に考えてみよう。

2019年9月29日日曜日

目に見えないコミュニティ


 昨日(9/28)のSeminar《「団地コミュニティ」の社会学的考察》を提起していて、「コミュニティなんて、あるの?」という反応を、わりと広い範囲の人たちにみて、そうか、コミュニティは目に見えなくなっているのだと気づいた。

2019年9月27日金曜日

奇遇のヨーキ、日本百名山・会津駒ケ岳

 先日(9/20)「女心と秋の空」を記した。台風が来る。ところが足が速い。9/25の奥日光は台風一過の晴天の予報。ならば日帰りで行きませんかと、ほかの方々に呼び掛けた。「眺望もいいというから、頑張ります」と古稀を越えたmrさんからの返信。ところがkwさん夫妻から「やはり体調が恢復せず、見合わせたい」との返事。mrさんに知らせると、「皆さんがそろっていくようにしましょう」ということで、見送りとなった。

2019年9月24日火曜日

溶け崩れる「民意」へのテロ


 村上龍『オールド・テロリスト』(文藝春秋、2015年)を読んで、何だか私たちは、どうしようもないところに来ているように思った。その「私たち」というのが、「日本の人たち」なのか、「日本の年寄り」なのか、「何もかも含めて日本」なのか、わからない。村上龍は、もう四半世紀前に「世の中の暗い部分だけを描きつけていてもどうしようもない。ここまでの創作路線を改めて、少しは世の将来のお役に立つような仕事に力を傾けたい」という趣旨のことを述べて、創作も変えてきたことがあった。阪神淡路大震災やオウム真理教事件があった前後だと思うが、いま、確かめる気力がない。その最初の創作が『希望の国のエクソダス』であったり、『13歳のハローワーク』だった(ように思う)。

2019年9月23日月曜日

ひとを非難するこころの救済


 モノを書いていて思うのだが、他人(ひと)の何かを批判したり非難したりするとき、内心のどこかに心地よさが揺蕩っている。他人の不法や非法、逸脱を非難するとき、非難している当人はご自分の正当性を疑っていない。その人の子細な事情を関知することもなく非難するとき、ご自分の立っている立場が何であるかを、たいていは意識していない。文章になったものを批判するのは、もう少しクールであろうが、その斬り口の鋭さが、どこか留飲を下げる気配を湛えていて、それ自体で批判する意味を見出している。

2019年9月22日日曜日

指標と自信


 新しい体重計が来た。「体組成計」と名称がついていて、体重ばかりか、11項目の「体組成」を図り表示してくれる。体重とかBMIというのは、わかる。計算式があるからだ。だが、体脂肪率、筋肉量、内臓脂肪、基礎代謝、推定骨量、カルシュウム推奨量となると、すべてブラックボックス。むろん、この体組成計をつくっている会社の算定式があり、それがこの計器のマイクロコンピュータに組み込まれているのであろうから、お任せするしかない。

 上記の外に、体内年齢と足腰年齢と体型判定というのは、たぶん統計的な平均値を組み込んで、あなたはどこに位置していますと、判断してくれるのであろう。最初に個人登録をしておけば、あとは計器に乗るだけで、計測がすすむ。

2019年9月21日土曜日

自然科学は「偏見」から自由か


 林憲正『宇宙からみた生命史』(ちくま新書、2016年)は、地球の生命史からみた宇宙を解きほぐしていて、面白かった。

 地球における生命が、いつ、どのように誕生したのか、それがどのように「進化」を遂げてきたのかを考察するとき、地球という限られた舞台だけで考えて来たのが、従来の生物学であった。ところが、宇宙が解き明かされてくるにしたがって、生物と非生物、無機物と有機物の端境がくっきり線引きされるものではなく、分子生物学が発展をみせ、化学と生物学の相互浸透がすすむ。こうして、生命誕生の証であるタンパク質を構成するアミノ酸を、実験室で誕生させられるかにとりかかる。生命誕生のときの地球の「状態」を再現するということは、じつは、地球の誕生を解きほぐすことであり、それはまた、太陽系を、銀河系を、宇宙の誕生であるビッグバンを解きほぐすことと無縁ではないうちゅう。こうして、地球生物学は、アストロバイオロジーへと展開してきたと、著者・小林は平明に記述している。

2019年9月20日金曜日

「女心と秋の空」


 来週の山は奥日光に泊って、太郎山と日光白根山の二山を登る予定であった。宿もとった。ところが、日光湯元の天気は悪くないのに、白根山の天気が「C」(不適)だ。風が強いせいかもしれない。とうとう宿のキャンセル料が発生する期限までよくならないので、中止にしようかと同行者へメールを打った。電話がかかってきて、「じつは体調が良くない」という。先週、鶴ヶ鳥屋山へ行った二日後に高尾山へ軽いハイキングをしたところ、調子を崩したという。夏の表銀座縦走が案外まだ、尾を引いているのかもしれない。白根山の日帰りならいけるかもしれないが、両方は無理だというので、まず宿はキャンセルした。日光白根山の天気が悪いなら、こちらはどうかと調べてみたら、富士山の西側、静岡県富士宮市の毛無山が「A」(適)だ。こちらにしようかと算段していた。

2019年9月19日木曜日

逆かもしれない

 昨日、大沢在昌『帰去来』の読後感を、次のように締めくくった。

 《それとも、異なる次元に移動する前の「現代社会」が「田園」だというのであろうか。そうか、そうなのか、大沢在昌にとっては。いま、そう思いついた。》

2019年9月18日水曜日

置かれた「場」で人は変わるが


 大沢在昌『帰去来』(朝日新聞出版、2019年)を読む。タイトルを見て「かえりなん、いざ。でんえんまさにあれなんとす」を想いうかべて、大沢在昌もやっとそういう気分になる年になったかと思った。ちがった。

2019年9月17日火曜日

リベラルの原点回帰は限界点でもある


 サザ・ハルヴァン監督『聖なる泉の少女』(ジョージア映画、2017年)を観た。不可思議な力を持つ村の泉を護りながら、村の「医師」として水による治療をやってきた父娘。娘の兄たちは皆、キリスト正教会やイスラムの聖職者になったり、無神論の科学の教師になっている。「おまえは特別な子だ」と言い習わされてきた娘が、聖なる泉を父とともに守ろうとするのだが、生長するにつれて(己への視線も加わって)疑念が湧く。他方で村は水力発電所の建設が進み、人びとの心もちの、聖なる泉との乖離がいっそう大きくなる。ついに泉に棲む魚が病むに至り、泉の少女はその魚を湖に放すというお話。

2019年9月16日月曜日

内面がほとばしり出る


 先週金曜日(9/13)、神田で映画を見たついでに上野の東京都美術館へ足を運び、秋の院展を覗いた。招待券を頂戴したからで、お目当ては高橋俊子の作品だけ。どんなものを書いているのだろう今回は、と興味津々ではあった。去年の春と秋の作品を観た思いを振り返ってみる。

2019年9月15日日曜日

地味だが手ごたえのある山――鶴ヶ鳥屋山


 涼しくなった昨日、手軽な山歩きと考えて、大月の先、笹子駅へ向かった。山の会の4人。私たちの外に数名の一組。でもこの方々はここから別の山に登るようだ。駅前には警察官二人がいて、「遭難防止」を呼び掛けている。登山者が増えているそうだ。本社ヶ丸から三つ峠山への稜線で、道に迷ったり滑落する事故がつづいているそうだ。単独行は止めようとか、事故にあったときに自分の位置をスマホで知らせる「山岳遭難時の対応」方法を書き込んだ非常用ブランケットを配っている。私たちが鶴ヶ鳥屋山へ行くと聞くと、じゃあ大丈夫ですねと笑っている。

2019年9月12日木曜日

「ときどき離脱」の都会生活


 8日にやってきた台風による停電から、千葉県の一部はまだ、復旧の見込みも立っていないという。送電線2本がへし折れるという強風だったからでもあろうが、人が密集して暮らす大規模都市のインフラのむつかしさを感じる。市民の暮らしはそうにしても、君津市などの製鉄工場群は自家発電の代替機能で用が足りているのであろうか。冷え切った溶鉱炉を、ふと想いうかべて、縁もないのに心配している。

2019年9月10日火曜日

根っこが同じという根拠


 国語の誕生が近代ナショナリズムの出発点とみてきた。ふと思い出したのが、井上ひさしの戯曲『国語元年』。バブルのころだったか、彼の劇団「こまつ座」でやっていた。戯曲本が図書館にあった。新潮社、昭和61年(1986年)の刊行。中身はすっかり忘れていた。明治一桁年代のころ、文部省のお役人が「全国統一話言葉取調ヲ命ズ」を受けて右往左往する物語り。そのお役人は長州、奥方は薩摩人、女中などは山の手ことば、江戸下町方言、大阪河内弁、南部遠野弁、羽州米沢弁を遣う各地出身者。そこへ京ことばのお公家さんと会津弁の泥棒がかかわって、「全国統一話言葉」を探るやりとり。同時進行で「小学唱歌」を編むことを行っている。とどのつまり、「小学唱歌」が共通語の体感をかたちづくり、それが「国語」の話し言葉になっていくことを予感させている。井上ひさしの台本は、(現在の共通)日本語の台詞に各地の方言をフリガナで振り、舞台のおかしさをつくりだしている。

2019年9月9日月曜日

すみなれたからだ、なのに(2)


 ノーベル文学賞受賞作家・クッチェ―の『モラルの話』の一篇について、2019年1月5日のこのブログでは、以下のように記している。

 《もうひとつ、「物語」。不倫。娘を学校へ送り迎えする主婦が、週に一度、ときに二度、街中の男のアパートへ行って抱き合う。ところが彼女にとってそれは、欲しいと思っていたものが手に入った喜びに満ちている。「やましさは感じない」。夫との間は、それまで以上に親密になる。「ふたりのあいだのことにはまだ名前がない」。もちろん不倫という名も、別の「物語」を知るときに名づけられるが、いまは、そうとは言えない。男の固有名もあるが、彼女は男を思うとき男Xと呼ぶ。そう呼ぶことによって、彼女の胸中に物語をもって起ちあがってくることをやんわりと拒んでいるように見える。男Xであるがゆえに、彼女の欲望を解き放つ「関係」に限定しておくことができるようだ。/「結婚した女が、意識的な決断をした結果、結婚した女であることを短時間やめて、ただの自分になり、それが終わればまた結婚した女に戻ることはできるだろうか? 結婚した女でいるって、どういうこと?」》

2019年9月8日日曜日

すみなれたからだ、なのに


 窪美澄『すみなれたからだで』(河出書房新社、2016年)。図書館の「本日返された本」の書架に並んでいた。8編の短編を収めている。表題作は、そのひとつ。

 年を取ると身体が思うように動かなくなる。のろくなる。鈍くなる。ここぞというところへ行き届かなくなる。それを意識しているうちは用心するようになるが、気を付けるのはたいてい、コトが起こって後のことになる。ひとつことに長く集中していることができない。本を読んでいても、文字がさらさらと表層を流れ、意味が汲み取れない。TVのドラマも、終わりまで見る気力がつづかない。飽きてしまう。すみなれたからだなのに、と思うことが多々あったから、書名が目に止まり手に取った。

2019年9月6日金曜日

古色蒼然たる「コミュニティ」


 隔月で行われているseminarの「お題」をお知らせした。お題は、《「団地コミュニティ」の社会学的考察》。すぐに出欠の返信が来たが、以下のような書き込みもあった。

(1)高度成長時代の遺物の廃墟? の話ですか。当地にも高蔵寺ニュウタウンなる団地があって、今や所有者も判然とせず、住民票も取れない人たちもいると聞きます。建て替え問題など大変だそうですね。こんな後ろ向きな話でないと思いますが、「潜入密着取材」は興味津々です。

(2)コミュニティといっても今、高齢化、そして、そもそも論として空家だらけではコミュニティなんて言葉は成立しないですよ。/町内会も高齢化で脱退者が増えて、ます。なんぞの時の助けあいなんて言うは美しくも非現実的。身体が動かなきゃできやしない。僕は野垂れ死にを覚悟してます。/高齢化と孤立(個立?)の行き着く先は誰にでもわかるが今更昔の大家族、互助の環境に戻れるわけもなく、解決するすべはないと思うし、解決のためと銘打って無駄金を投ずるのもいかがなものか。/町内会なんて馬鹿馬鹿しいと思ってます。因みに我が町の歴代会長は世間知らずの学校の校長経験者。

2019年9月5日木曜日

香港行政長官とドン・ウィンズロウ


 香港行政長官の「選べるものなら辞任したい」という発言を聞いて、アメリカの推理小説作家、ドン・ウィンズロウを想いうかべた。どうして?
 じつは、この作家の香港を一部舞台にした作品を読んで、以下のような感想を書き綴ったことがあったからだ。「2019-6-19 広範な取材力に感心」と題してこう記している。

2019年9月4日水曜日

「想像」の根っこ――私の裡のナショナリズム


 ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」が提起したことを五項目にまとめた大澤真幸の「ナショナリズム」に基づいて、これまで考えてきた。だが考えるにつれて、アンダーソンの「想像」のもう一つ手前にある根幹に触れる必要があると思った。いうまでもなく「想像」は「言語化」される。「ことば」で表現されるわけだから、「一体感」の根幹も「想像による」と呼ぶのは、間違いではない。だが見知らぬ他人と一体感を持つというのは、ことば以前に「同じ空気を吸っている(吸ってきた)」という共有の感触を持っている必要がある。私の裡のナショナリズムの子細を腑分けしてみると、文化を共有しているという感触(これも想像ではあるが)に突き当たる。

2019年9月3日火曜日

意欲を掻き立てるのは、山か人か


 昨日(9/2)埼玉県の西部、秩父と境を接する奥武蔵の山に登った。山の会の会員企画「日和見山歩」の月例山行、チーフリーダーは60代前半のSさん。当初、9/4(水)に設定していた。ところが天気予報が悪くなり、9/2(月)に変更した。参加者は5人。70代前半が2人、60代が2人。いずれも女性。後期高齢者は、男の私一人。

2019年9月1日日曜日

ほろびた「まほろば」の芽を残す意思


 宮部みゆき『この世の春』(新潮社、2017年)を読み終わる。(上)(下)二巻。時代物なのだが、これまでの時代物にみられたファンタジックな物語というのではない切実さがこめられている。人間宮部が、自らの裡側へ水鉛を下ろし、自らの中の濁って疎ましいものを抉り出して始末をつけようとしているように感じた。