2019年9月5日木曜日

香港行政長官とドン・ウィンズロウ


 香港行政長官の「選べるものなら辞任したい」という発言を聞いて、アメリカの推理小説作家、ドン・ウィンズロウを想いうかべた。どうして?
 じつは、この作家の香港を一部舞台にした作品を読んで、以下のような感想を書き綴ったことがあったからだ。「2019-6-19 広範な取材力に感心」と題してこう記している。


    《ドン・ウィンズロウ『仏陀の鏡への道』(創元推理文庫、1997年)を読む。『犬の力』を読んで、どこまで「のびしろ」があるのか気になったから。読んでよかった。ただのハードボイルド好みの作家ではなかったと思った。しかし人の動きを前にすすめる推進力に関するこの作家の「動機」は単純明快。表題の仏陀の鏡への道というほどの、深い洞察はない。こけおどしといえばこけおどし、めくらましといえばめくらまし。だが、中国事情について、これだけアメリカの作家が知悉しているというのは、驚きであった。「犬の力」のCIAとメキシコや中南米諸国への介入というかかわりが、あれほど迫真力をもって書き込まれていたのも、なるほどと思わせる。作家というのは、たとえ推理作家であれ、世界の情勢について十分すぎるほどの取材をしていなくちゃならないんだと、感嘆してしまった。でも、それだけのことではありました。》

 『仏陀の鏡への道』には香港マフィアも登場する。中国の国家権力ともつるんで無法の辣腕を揮うその姿は、法の埒外という以上に、原初的な暴力に身を浸してきた(限られた)社会の残影を感じた。これは同じ作家の、暴力を主題とする作品『犬の力』のモチーフに、「のびしろ」を感じたからであった。ウィンズロウは、「(自分の仕事上の立場における)お役目」とか「社会的なシステムのもたらす仕組み」の発動する暴力性が、人間の実在や実存をまったく考慮に入れない非情さを描き出していて、末尾に(作家自身の視野の届くところを示すかのように)一つの詩編を挟みこんでいた。

 「わが魂を剣から解き放ちたまえ/わが愛を犬の力から解き放ちたまえ」

 この詩編の「のびしろ」を保障するのは、ウィンズロウ自身の人間に対する認識の深さと考えた。そして、現在の彼自身の(作品に描かれた)人間と社会関係の像は、「絶対の正義と単純な動機」(2019-7-3)とまとめられるほど、単純明快だとみてきた。

 ところが、現在の香港で起こっている事態は、まさにウィンズロウが作品に描く世界そのものではないか。裏側で何が画策され、どう作用してこの事態が起こっているかわからないが、香港行政長官が「選べるものなら辞任したい」(しかし、辞任は考えていない)というのは、何を意味するか。ウィンズロウの作品中ならば、行政長官の家族を人質にとって(いつでもその力を発動できるよと)長官に迫っている中国国家権力の裏ワザが描き出されるに違いない。香港のデモに対して「白シャツ隊」が殴り込みをかけ、それが香港マフィアの仕業と謂われると、当然のようにウィンズロウならば、中国国家権力の裏ワザに言い及ぶであろう。そこへもってきて、香港の対岸、深圳での武装軍隊の鎮圧訓練の報道の映像を重ねると、ウィンズロウが単純明快な暴力に浸っているのではなく、まさに現実の政治権力が、あるいは社会システムが、いまだ暴力の単純な発動世界にとどまっているではないか。香港警察の、デモ参加者への無体な暴力の発動も、同列の感懐をもたらす。人間て、変わらないんだなあと、75年前の日本人の暴力性の行使にまで思いは及ぶ。今の日本人の「平和ボケ」ぶりこそが、人類に進歩のようにも思える。

 とすると、ウィンズロウの詩編は、まさに今現実の、私たちの願い。祈りである。

「わが魂を剣から解き放ちたまえ/わが愛を犬の力から解き放ちたまえ」

 人類が「国家」という枠組みにくるまれて「争い」、「帝国」を形成するようになってから、長くとっても2000年だが、それ以来の、原初の暴力を克服していないことを、感じている。

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