2019年9月24日火曜日
溶け崩れる「民意」へのテロ
村上龍『オールド・テロリスト』(文藝春秋、2015年)を読んで、何だか私たちは、どうしようもないところに来ているように思った。その「私たち」というのが、「日本の人たち」なのか、「日本の年寄り」なのか、「何もかも含めて日本」なのか、わからない。村上龍は、もう四半世紀前に「世の中の暗い部分だけを描きつけていてもどうしようもない。ここまでの創作路線を改めて、少しは世の将来のお役に立つような仕事に力を傾けたい」という趣旨のことを述べて、創作も変えてきたことがあった。阪神淡路大震災やオウム真理教事件があった前後だと思うが、いま、確かめる気力がない。その最初の創作が『希望の国のエクソダス』であったり、『13歳のハローワーク』だった(ように思う)。
たまたま図書館の書架にあって、目に止まったのが、本書。何とも読みにくい。あれ? 村上龍って、こんなに読みにくい文体だったっけ? と思うほど、主人公の内心の揺れがぎくしゃくとして行間にあふれ出ている。もちろんスムーズに流れる文体が優れていると言っているわけではない。描き止めようとしている事柄が、人の肉体を通すとそれほど容易に受け止められたり消化されたりするわけではないから、嘔吐したり、何日間も体調を壊したりすることは起こりうるのだが、この作家は、これほどそれにこだわる文体だったっけ? もっと人が傷つくことや死に頓着しないハードボイルドなところがあったんじゃないか、と妙に感じたわけ。
物語り自体は、それほど複雑ではない。一人のジャーナリストを主人公に据えて、彼を巻き込みながら「テロ」が展開していく。(社会的にも老後的にも)矍鑠として果敢な年寄りたちが死に場所を求めて最後の華を咲かせる「場」を求める。生きながらすでに死んでいる若者たちが、介在して事件は起こり、記録者として見初められた主人公が、事件のひどさに反応してぎくしゃくしてしまう。
村上龍は、「世の将来のお役に立つ」ことを意図したにもかかわらず、世の中が現在のようになってしまっていることに苛立ちを隠せなくなったのかもしれない。と言ってかつてのように、クールに「コインロッカーベイビーズ」を描きとるほど、センスが飛び跳ねてもいない。この四半世紀の間に彼は世のエスタブリッシュメントの空気に身を浸し、圧倒的な社会システムの枠組みの強固さに撥ねかえされてきたのかもしれない。とうてい敵わないと感じ続けてきたのではないか。敵わないのは、国家権力(ばかり)ではない。いやそれ以上に、高度消費社会の暮らしにどっぷりとつかって「生きる」覇気どころか、魂までも失ったような人々に、抗えない手強さを感じているように見える。もし村上龍が、何がしかの「将来イメージ」を持っているとしたら、手強い彼の敵は、まさしく「民意」という茫漠とした社会の空気であり、その「民意」がもはや手の付けようがないほど、溶け崩れてかたちをなさなくなっている。それに対する「テロ」は、したがって、世の中のすべてを解体し、かつての焼け跡闇市のような状態から再出発することをイメージすることに帰着する。さて、どうなるか?
こうしてハラハラしたい思いを抱えて読んでいるのに、ぎくしゃくとした運びと文体とが進行を阻害し、ついには、昭和20年夏以降の本土決戦におけるゲリラ戦のイメージまで動員されていく。そうか、「半島を出よ」という作品も、あったな。だが、ついに、活劇に至らず、憂さを晴らそうとする読者の期待は裏切られ、溶け崩れる「民意」って、ひょっとすると、今の私のような人のこと? と、自問自答する状態を誘発する。
まあ、同じ年寄り。いつか似たようなことをイメージして、尖閣諸島へ片道燃料だけを積んで年寄りが操縦して押し寄せるって考えたことを重ねて思った。つまり、「国難」である尖閣諸島問題と高齢者問題とを一挙に片付ける名案であった。だが、「オールド・テロリスト」の敵は茫漠たる大衆、「国難一挙解決案」の敵は尖閣諸島に押し寄せる中国系の難民。どちらも外国勢力と向き合う点では似たようなものではある。またどちらも夢想。年寄りだって、すでに、溶け崩れているんだもの。
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