2019年9月8日日曜日

すみなれたからだ、なのに


 窪美澄『すみなれたからだで』(河出書房新社、2016年)。図書館の「本日返された本」の書架に並んでいた。8編の短編を収めている。表題作は、そのひとつ。

 年を取ると身体が思うように動かなくなる。のろくなる。鈍くなる。ここぞというところへ行き届かなくなる。それを意識しているうちは用心するようになるが、気を付けるのはたいてい、コトが起こって後のことになる。ひとつことに長く集中していることができない。本を読んでいても、文字がさらさらと表層を流れ、意味が汲み取れない。TVのドラマも、終わりまで見る気力がつづかない。飽きてしまう。すみなれたからだなのに、と思うことが多々あったから、書名が目に止まり手に取った。


 表題作は、中学生の娘の変わりようにアラフォーの自分の経てきた歳月と身の変わりようを重ねて、あれこれと慨嘆する。ふと気づくと、これぞと思って一緒になり、子を設け、何不自由なく暮らしている自分が、でも充たされないと感じている。でも、娘が学校へ行き、洗濯物を干しているときに夫からからだを求められ、喜んで応じ、充たされて夫や娘の食卓のことへ思いを及ぼす「身」を描く。からだとこころがひとつながりになって揺れ動く日常の断片。ひとつに収まる落ち着きどころがとりだされている。こころに帰結するのか、からだに帰結するのかと二分法的に思わないでもないが、どうして分けて考えるの? と自問自答への疑問が湧く。

 この作家が10年前に「賞」を受けたというデビュー作を読んでみた。「ミクマリ」。ご近所の主婦との演劇的セクスを娯しんでいる高校生に恋をした女子高生がからみ、みくまり(水分)をする段になって、こころがからだとが交信し始めて揺れ動く様子を描いている。男子高校生の目を通して世界を見ているが、描き出されているのは女性のからだか。そのからだは、なんとも厄介で面倒なしろものと浮かび上がる。若いころの私も、自分のからだを同じように感じていたことを思い出す。いや、いまでもそうか。性欲という言葉にすると、いまはもうどうでもいいことに感じられるが、こころの奥底に、あるいは日常の動きの原動力の奥底に性的な衝動が蠢いていることは、年を取った己自身の内部にも、いまだ消えていないと思い浮かぶ。この厄介で面倒なからだとこころの乖離に七転八倒したこともあったなあと、若いころを振り返る。当時は、二分法で考えたくなるほど、両者は対立的でもあった。

 いまそれは、ひとつに感じられることが多い。からだが精気を失い、こころから、ものごとに対する前向きの意欲が減退してきたからなのかもしれない。両者がおおむね見合っているのだ。考えてみると、からだ(とこころ)の醸す性的欲望が生命力の原基にあるとフロイトがみてとってからも、いまだセックスに対して考察する社会(ヒト)の腰は引けている。「なぜセックスはたのしいのか」を著したジャレド・ダイヤモンドにしても、動物進化学的な考察の段階にとどまっている。あとはもっぱら文学のテーマとして取り扱われてきたが、それとても20世紀のあいだは、フロイトが説を提起したとき「色狂い」扱いを受けたという伝説と、あまり変わらない。21世紀になってやっと、タガが外れてきたようにみえるが、果たしてどこまで自分の内面と向き合ってその考察がすすんでいるか、わからない。ただ間違いなく、そのテーマは人々の視線を集め、密かに読まれ覗きみられるから、商品価値を得て、商業ルートに乗っている。

 たぶんこのあたりが、すみなれたからだとこころの「かんけい」として(哲学的に)解き明かされてくれば、もっと自在に、このテーマに向き合ってやりとりすることができるように思う。いやじつは世界は、とっくにその段階を越えて、深い考察に入っているよと思わないでもない。ノーベル文学賞を受賞した作家クッツェーの『モラルの話』が提示しているモンダイだ。2019年4月10日の「不作為の傾き」で取り上げたようなことを知らないわけではないからだ。これからの「論題」である。

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