昨日、大沢在昌『帰去来』の読後感を、次のように締めくくった。
《それとも、異なる次元に移動する前の「現代社会」が「田園」だというのであろうか。そうか、そうなのか、大沢在昌にとっては。いま、そう思いついた。》
でも一晩おいて考えてみると、逆かもしれない。大沢在昌にとっては、混沌無法の新宿こそが「でんえん」であって、そこを争いながら仕切っていた二つのヤクザ勢力が官憲の取り締まりによって瓦解していくのを、「でんえん、まさにあれなんとす」とみていたのではないか。そうみると、いかにも大沢らしい構成である。ヒトの生きる姿の原初の形が、ヤクザ差配とはいえ官憲から自立していること。それのよって立つ基盤が暴力と欲望とをモメントとして構成されていることを、むしろ誇らしく思ってきたというのは、生きる根源に足をつけている。その根源を見失って、官憲に預けてのほほんと暮らす現代社会の人間はすでに死んだも同然の姿だぞと、心のどこかで感じている。その感懐を作品にしたら、こうなったというのかもしれない。
そこまで寝ながら考えて、後者の方に、この作品の面白さをおいてみることにした。そうすると、なるほど「帰去来」というタイトルが異彩を放つように思えた。
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