2019年9月12日木曜日
「ときどき離脱」の都会生活
8日にやってきた台風による停電から、千葉県の一部はまだ、復旧の見込みも立っていないという。送電線2本がへし折れるという強風だったからでもあろうが、人が密集して暮らす大規模都市のインフラのむつかしさを感じる。市民の暮らしはそうにしても、君津市などの製鉄工場群は自家発電の代替機能で用が足りているのであろうか。冷え切った溶鉱炉を、ふと想いうかべて、縁もないのに心配している。
山に入ることが多いからそうなるのかもしれないが、小さな単位で暮らしの最低限が成り立つことへ心は傾く。災害に出遭っても、小さな暮らしの単位なら、外からの援けに頼らず自力で何とかするしかないし、できるように思う。でもこういう感覚は、今はノスタルジーなんだね。流通と交換のネットワークに乗って暮らしているのだから、いまさら何よと、叱られる。その枠から「ときどき離脱」ってのも悪くはないが、それが常態になるとくらしていけない。
災害のときだけ(何週間か)離脱ってことは、できるだろうか。もちろん仕事をしていない老人の話だと断っておく。その間、家を放っておいても差支えないという「条件」がともなうが、そうすることができれば、天からもらった特別休暇のように考えて、山へ入ればいい。何種間かという単位で考えるのなら、それこそテントをもってもいいし、お金に困らなければ山小屋に止めてもらって、長逗留できる。何冊かの本をもっていけば、暑い残暑をやり過ごすのにも最適だ。
ま、「暮らし」というのは、定住者のものだから、そうはいかないだろうが、老人には(移動が不自由でない限りは)それができる。車をつかえば、もっとその移動範囲は広がるし、持参荷物も増える。車の使いようによっては、宿泊場所にだって困らないと言えば言える。そうか、ホームレスになるわけだ。
そうやって定常的な「暮らし」から離脱することによって、都会生活というものを見直す機会にしてもいいかもしれない。そうすると自分たちがいま、どれほど他に依存したかたちの暮らしを営んでいるか、自画像が描けようというものだ。電気ガス水道と、生活インフラを考えてみると、他に依存しているばかりでなく、いかに贅沢に使っているかも、よく見える。自らのどっぷり浸っている「環境」からちょっと離脱するだけで自分の姿が見てとれるというのは、なかなか素敵なことではないか。
そういうわけで、都会生活から「ときどき離脱」すること(特段災害に合わずとも試みること)を、今後の老人の暮らしの「戒め」として考えおくことにする。
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