2019年9月4日水曜日
「想像」の根っこ――私の裡のナショナリズム
ベネディクト・アンダーソンの「想像の共同体」が提起したことを五項目にまとめた大澤真幸の「ナショナリズム」に基づいて、これまで考えてきた。だが考えるにつれて、アンダーソンの「想像」のもう一つ手前にある根幹に触れる必要があると思った。いうまでもなく「想像」は「言語化」される。「ことば」で表現されるわけだから、「一体感」の根幹も「想像による」と呼ぶのは、間違いではない。だが見知らぬ他人と一体感を持つというのは、ことば以前に「同じ空気を吸っている(吸ってきた)」という共有の感触を持っている必要がある。私の裡のナショナリズムの子細を腑分けしてみると、文化を共有しているという感触(これも想像ではあるが)に突き当たる。
(1)島国という海に守られた閉鎖空間に生まれ育った。
(2)方言は違うのに、同じ「国語」をしゃべっているという「錯覚」。これは、近代になってからの後付けになる。生育する子どもの側からみると、学校教育を受けることによって「後付け的に」同じ「国語/日本語」と認知するようになる。
(3)学校教育を通じて「同じ教育をほどこす」ことが、同世代感覚を育んできた。日本の学校を見学した外国人の教育研究者が一様に驚くことは、日本ではだれもかれも(能力の違いに拘泥せず)同じ教育を受けていることに驚く。ラジオやテレビや新聞など、画一的であったマスメディアに浸る時代の共有体験も、学校教育と同じような作用をもたらした。だがメディアが多様化し、学校教育も(社会層が格差を広げて)多様化するにつれ、同じ体験を共有する機会が少なくなった。
(4)一億総中流と呼ばれた時代に、生活感覚での「一体感」は一層促進された。逆に「格差が広がる社会」の感触は世代的には(ある程度)感知されるが、それは個々人の能力のモンダイに解消されて、社会的な共有感覚にならない。
(5)と同時に、多様化が叫ばれ、じっさいにマスメディアからパーソナルメディアに変わるにつれ、音楽においても個別化が進行し、共有感覚をもつことが減少してきた。それは「一体感」において「不安」を醸すため、人々は(それまでに比べて)ますます「一体感を共有する体験」を求める。評判のイベントに参加し、人びとが共有する流行に敏感になり、「いいね」を収集することが自己意識をかたちづくるように受け止められる。これは逆に、「違うもの」を排斥するモメントにもなり、ヘイトスピーチが横行し、ひとたび明確なターゲットが出現したと思うと、「炎上」することにもつながる。
(6)経済のグローバル化や通信手段の世界化は、「海に守られた島国」という感覚をほぼ消し去り、個人が単体として世界に実在しているという「錯誤」を生み出し、一般化している。
1970年代から2000年代へ至る時代相の変化は、確実に「共有体験」を減少させ、個々人の自律の感覚を促進し、ひいては、個々人の自己責任を定着させる。社会的に共有のモンダイというセンスがなくなってきている。困った人たちを社会的に援けることも、一般的なこととして社会的に共有されることがない。人はそれぞれが皆、それぞれのことを責任をもって始末するべきで、助け合うことが最低限の社会的規範として存立しなくなっている。これは、「ナショナリティの根幹である一体感」が、人びとの関係から剥がれ落ちている姿である。
では独立自尊の感覚が広く受け入れられていっているかというと、そうではない。長い間の中央集権的な社会形成、公権力に依存する社会体質、やっかいなことは公がになって解決してくれるという(日本社会が、近代以前から)長年築いてきた社会関係が身体に沁みこんでいて、独立自尊は、わが身の周りの自己利益を守ることだけに特化して、伸長している。つまり、ナショナリズムは、国家や公的権力にだけ保持されて、人々のあいだの社会規範としては、上記の(5)の場合にだけ発動されるようになっているのではないか。
もちろんそれも「想像の共同体」であることは否定しないが、身体の感知する共有感覚をとらえないと、見損なってしまうのではないかと思うのである。
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