2019年9月18日水曜日

置かれた「場」で人は変わるが


 大沢在昌『帰去来』(朝日新聞出版、2019年)を読む。タイトルを見て「かえりなん、いざ。でんえんまさにあれなんとす」を想いうかべて、大沢在昌もやっとそういう気分になる年になったかと思った。ちがった。


 次元の違う世界を対照させて、同じ人物の二つの顔をあぶりだし、その人としての「かんけい」の味わいをみせるというハードボイルドタッチのアクションもの。痛快かどうかは、どっちでもよいというあしらい方が、昔日の彼の作品と違うところ。ヒトを描く要素へ傾いている。

 次元を異にした「わたし」が、置かれた立場で気質まで変わる。いや、変わることができるかどうかを作品上で試しているという作家の筆致が、読ませた。混沌無法の新宿の情景は、さすが歴戦の大沢と思わせる筆運びだが、高度消費社会の現代では筆の走りも緩い。  

 現代社会への批判精神が薄いせいか、混沌無法の支配する世界への肩入れも希薄になっている。どこが「かえりなん、いざ。でんえん、まさにあれなんとす」の「でんえん」なのか、わからなかった。置かれた「場」で人が変わるという見たては面白いが、「場」のどこに「でんえん」を感じているかによってタイトルの「帰去来」が消え去ってしまう。

 それとも、異なる次元に移動する前の「現代社会」が「田園」だというのであろうか。そうか、そうなのか、大沢在昌にとっては。いまそう思いついた。

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