2019年9月1日日曜日

ほろびた「まほろば」の芽を残す意思


 宮部みゆき『この世の春』(新潮社、2017年)を読み終わる。(上)(下)二巻。時代物なのだが、これまでの時代物にみられたファンタジックな物語というのではない切実さがこめられている。人間宮部が、自らの裡側へ水鉛を下ろし、自らの中の濁って疎ましいものを抉り出して始末をつけようとしているように感じた。


 もう少し別様に言うと、人が生まれ生育してくる間に、親や兄弟姉妹や社会関係から「しつけられ」、あるいはそう仕向けられて身に備えてきている「おぞましい」ものごとに、大きく成長してから気づかされるが、自身はそれに気づくことができず、それを克服排除していく契機は、まったく自身を取り巻く人たちの「あらまほしきかかわり」によってつくりだされ、その人たちの尽力によって身の裡から取り出される。しかしとどのつまりは、その「あらまほしきかかわり」への「わたし」の思いが働いて、その「おぞましきもの」を剔抉し、排除することができる。

 その「あらまほしきかかわり」の原形が、わが心のまほろばともいうべき「里」にある、と読める。「まほろば」は、暮らしのことごとに丁寧に取り組み、丹念にそれを組み立て、こなしていく立ち居振る舞いであり、序列に頓着しない朴訥であり、見かけに拘泥しない応対であり、それがすなわち無垢な幼子であり、人を思いやる心根だと宮部は人物の造形をする。でも、その「まほろば」は、今の時代からみると、とうの昔に、すでに焼つくされて滅ぼされている。それを求めるのは、単なる郷愁ではないのか。そういう問いに対して宮部は、次のようなやりとりを書き留めている。

「こうしてまめに道を踏み均し、掃除を欠かさずにしておけば、あたりがすっかり凍りついてしまっても、出土村へ通うことができる」と、じっちゃは言う。
「誰が通うんだよ」(とどこへ同道する子どもがいぶかる。)
「人は通わんでも、仏様が通られる」

 「まほろば」とは、わが心裡の「ふるさと」であり、身に備わったナショナリティの原形、あるいはパトリオティズムの起点でもある。すなわち、いつ知らず生育する過程で身に着けた「関係の総集」が、「あらまほしきかかわり」とのやりとりを通じて、一つひとつ意識化され、わが身からとりだされ、そうすることによって「わが身」を「とりもどす」。こうしたやっかいな手続きを経なければ、「わが身」は「関係の総集」の、いわば「呪い」に乗っ取られたままになり、「呪い」を掛けられたままを「わが身」のようにみなして、生きていくことになる。

 「まほろば」に戻る道は、いまは、ない。だがそこからの踏み跡が、どこかに通じていれば、いつか「まほろば」が甦る。そういう希望を失っちゃあ、ダメだよと、宮部に励まされているように感じた。宮部流の現代社会批判と読み取って、面白かった。

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