2019年9月23日月曜日
ひとを非難するこころの救済
モノを書いていて思うのだが、他人(ひと)の何かを批判したり非難したりするとき、内心のどこかに心地よさが揺蕩っている。他人の不法や非法、逸脱を非難するとき、非難している当人はご自分の正当性を疑っていない。その人の子細な事情を関知することもなく非難するとき、ご自分の立っている立場が何であるかを、たいていは意識していない。文章になったものを批判するのは、もう少しクールであろうが、その斬り口の鋭さが、どこか留飲を下げる気配を湛えていて、それ自体で批判する意味を見出している。
こうも言えようか。他人を非難したり批判することそのものが、実は自分を優位に立たせる行為である。そうしたい動が、まずあって、非難・批判する正当性や理屈は、後からついてくる。または、あとから編み出される。つまり人が人と向き合うときには、必ずと言っていいほど、優劣の(立ち位置が)編みこまれている。それに気づくと、自分の立ち位置を相対化しようと試みる。意識してそうしていないと、ついつい優越的な立ち位置を求めて(論理性を欠き)批判が非難に堕してしまう。
他人の書いたものを批判するときには、その論理的な欠落を指摘したり、限定条件を突き破って考える次元を変えたりするが、そのとき指摘する側は優越的な位置に身を置いている。批判するという行為それ自体が、世の中(の動き全体)からするとあってもなくてもいいことなのだ。ただ、モノを書くという行為それ自体は、他者に読ませるため(ばかり)ではなく、自分の内心を(描き落とすことによって)対象化し、自らの輪郭を描く行為である。そのとき優越性は、それに気づく前の自分に対する書き落としたのちの自分の優越性を意味する。それはこころの救済のように作用して、自己の外延が広がっていくような気分を味わう。自己満足と呼んでもいい。
だから批判(するという行為)は、自己の輪郭を描き出そうという動機による以外は、(世の中的には)無用のことと言っていい。非難は、たいていの場合、発作的に行われる。発作的というのは、自己を対象的に見ていないことを指している。だから、他人を非難したときには、あとからであっても、なぜそうしたのか、それは自らの裡の何に根拠をおい非難できるのかと、振り返ってみる必要がある。そうしないと、ただ単に俺の方が偉いんだぞと見栄を切ったにすぎなくなる。見栄を切りたくなる自分のこころの救済には、至らない。
年を取ったせいで、他人を非難する意欲がなくなった。「なんだ、あいつ」と一瞬思うことがあっても、(ま、おれとちょぼちょぼやないか)と内心の声が聞こえる。批判するのは、たいてい自己の「せかい」と交叉する何かを感じた時だから、これはこれで大切にしたい。
腹が立つことは、ときどきだが、ある。権力的な立場を棚に上げてか関知せずしてか、鷹揚に、あるいは偉そうに、そして啓蒙的に諭すように、モノを言う人に接したときだ。つい「バカめ! 何様だと思ってるんだ!」とTVの画面に向かって罵り声をあげている自分に、気づくことがある。とても人間が丸くなったと言われるような所作ではない。でもこうして、非力な自分のこころの救済をしているのだなあと、考えるともなく思っている。
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