2019年9月21日土曜日

自然科学は「偏見」から自由か


 林憲正『宇宙からみた生命史』(ちくま新書、2016年)は、地球の生命史からみた宇宙を解きほぐしていて、面白かった。

 地球における生命が、いつ、どのように誕生したのか、それがどのように「進化」を遂げてきたのかを考察するとき、地球という限られた舞台だけで考えて来たのが、従来の生物学であった。ところが、宇宙が解き明かされてくるにしたがって、生物と非生物、無機物と有機物の端境がくっきり線引きされるものではなく、分子生物学が発展をみせ、化学と生物学の相互浸透がすすむ。こうして、生命誕生の証であるタンパク質を構成するアミノ酸を、実験室で誕生させられるかにとりかかる。生命誕生のときの地球の「状態」を再現するということは、じつは、地球の誕生を解きほぐすことであり、それはまた、太陽系を、銀河系を、宇宙の誕生であるビッグバンを解きほぐすことと無縁ではないうちゅう。こうして、地球生物学は、アストロバイオロジーへと展開してきたと、著者・小林は平明に記述している。


 その冒頭において小林は、「われわれは宇宙の中心か」と問いをたて、太陽系が数千億個の構成の一つにすぎず、銀河系の片隅の存在にすぎず、その銀河系すら宇宙にある数千億個のほんの一つにすぎないこと、さらにビッグバンのインフレーション理論から推定すると、宇宙はただ一つ(uni-ユニ)ではなくたくさん(multi-マルチ)であること、つまりユニバースではなくマルチバースであると考えられると、そう考えられるに至った発見の過程を簡略に記しつつ、生命を関心の中心に置いて宇宙がどう解きほぐされてきたかを解説する。

 知らなかった世界が次々と展開していく様子を目の当たりにするのは、わが身が広がっていくような感触をともなって、面白い。と同時に読み進みながら(小林自身も常にそういう留保を持っていると感じさせる表現を用いているが)、「仮説」が介在していることを感じる。「仮説」というのは、そう考えることで説明のつかなかったいくつかの事柄が論理的に理解できることを意味している。じっさい、実証などできない領野があるのだ。

 それを小林はどう乗り越えているか。物理学は地球上だけで成り立つものではなく、宇宙全体で成立する普遍的な真理である。化学もまた、宇宙のどこでも成立する事象だと、「普遍性」を拠り所にする。と同時に小林は、次の補足を忘れない。

《もしマルチバース説が正しく、私たちの「宇宙系」以外の「宇宙」があるならば、そこでの物理学は「宇宙系」での物理学と異なると考えられる》

 「宇宙からの視点で地球や地球生命をみると、地球上からだけ見ていたのではわからないことがわかってくる。そのような学問分野をアストロバイオロジーとよんでいる」そうだ。小林は「地球生物学」の観点では常識と思われていたことが、宇宙でも本当にふつうなのかを考えてみる」とし、《生物学を「地動説」の立場から調べてみる》と位置づける。だが学問分野の広がりは、地球からみた関心ばかりが動機ではない。そこが「天動説」ではなく「地動説」の地動説たるゆえんでもあるが、宇宙への進展がすすむにつれて、「もし地球の生命体が宇宙の生命体に影響を与えるとしたら重大に過ぎる」として「圏外生物学」の研究が提唱され、それがアストロバイオロジーへとつながった経緯も記されている。つまり、宇宙生命体の側からみた宇宙開発のモンダイとして宇宙生命体の研究が行われはじめたのでもある。地球生命体の解明は、宇宙生命体の解明と手を携えて展開することになった。

 本書の記述は、上記の概要を前提にして、生物学における生命体の研究を解きほぐす。分子生物学が化学と生物学の融合であると言われ、遺伝子の解析がすすみ、DNA/RNAがほぼ解読されていく過程と同時進行で、生命の誕生への探求も進行する。読む者にとっては、いわば、物理化学生物学という自然科学の統合的な理解が求められ、それに(生命科学という分野から)応える見事な解説が行われている。だが、それを受け止めている私自身の理解からいうと、著者の記述が何を意図して行われているかは理解できるが、その記述されている展開が事実に即して精確なのかどうか、じつは、まったくわからない。それを理解するには、アミノ酸の構造式やその変異のことごとの意味がつかめていなければならないが、それを検証する力などは、まったくない。つまり私は、「専門家がこう記述しているのだから、その論理展開でたぶん精確なのだろう」と信頼を寄せているにすぎない。ここに「わたし」の「権威」がおかれている。これは私にとっては、「仮説」にすぎないことなのだ。だがその「仮説」であることを忘れた瞬間、「わたしの仮説」は「偏見」になる。「妄信」になり、それを他に向けて発信すると「妄言」となる。

 著者・小林もアストロバイオロジーの専門家たちのあいだの力点の仕方に違いがあると指摘している。専門家たちの「ふるさと」が生物学であるか化学であるか宇宙物理学であるかによって、傾きが異なる、と。そこに地球を宇宙の中心とみる(天動説的な)「傾き」があると。しかしそれは、モノを考えているのが、今ここにいる「わたし」であるという存在論的事由によるのであって、だれもそれを避けて通れない。つまり何がしかの「仮説」にたってものごとを見ているという「制約」を免れることはできないのだ。

 「わたしの仮説」は、じつは、「わたし」の知的集積の「せかい」である。だからそれをつねに「ひらく」方向へ保つことが、「わたしの仮説」を「偏見」から救い出すせめてもの営みとなる。本書の終わりの方で小林は面白い記述展開をして、読む者を面白がらせる。ヒトは地球を代表する生物か、と問う。そうして、長寿の年数で較べたり、数で比較したり、総重量で計算してみたりして、他の生物と比べている。むろん動物としての長寿年数においては、ホンビノスガイにははるかに敵わない。植物まで含めるととうてい比ではない。重量計算で面白いのは、地下生物と呼ぶ微生物の存在が200兆トンと算出されている。人類の総重量3.5億トンどころか、地表生物の総トン数1兆トンをはるかにしのぐ。それはまた、過去4回起こって生命体を脅かした地球の全球凍結があっても、あるいは、恐竜を滅ぼしたのと同様かそれ以上の彗星の猛爆撃が、将来4回起きると見たてられているが、それらの災害があって、地上の生物が死に絶えることがあっても、地下生物である微生物は生き延びるとみているのも、ちょっと「地動説」的な立ち位置を広げているようで、面白いと思った。

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